武田信吉

武田信吉

松平信吉とも。徳川家康の五男で甲斐武田氏の名跡を継いだ大名。幼名は、福松丸、万千代丸。通称は、七郎。信義とも名乗った。
1582年の甲州征伐により甲斐の名門・武田氏は滅亡したが、これを惜しんだ徳川家康は穴山梅雪の嫡男・勝千代(信治)に武田氏の名跡を継がせた。しかし、勝千代が早世してしまったため、梅雪の養女を母とする福松丸つまりのちの信吉に武田氏名跡を継がせた。家康が関東に移った際、信吉は下総国小金城3万石に封ぜられ、1593年には下総国佐倉城10万石を与えられた。
1600年の関ヶ原の戦いでは留守居役を任ぜられ江戸城西の丸に留まったが、戦後、常陸国水戸25万石に封ぜられ東北諸大名の押さえを担った。だが、生来病弱であった信吉は1603年10月15日、わずか20歳でこの世を去った。子女のなかったため、信吉の死により武田氏は断絶となった。

反応