水野監物

水野監物

江戸時代前期から中期の大名、三河国岡崎藩の4代藩主。幕府老中も務めた。官位から「水野監物」の通称で知られるが、名は忠之(ただゆき)。岡崎藩2代藩主・水野忠春の四男として生まれ、親族で旗本の水野忠近の養子となり家督を継いだ。その後、兄で岡崎藩3代藩主・水野忠盈(ただみつ)の養子となると、兄没後、家督を相続し4代藩主となった。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城大廊下にて吉良上野介義央に刃傷に及んだ時、水野は赤穂藩の鉄砲洲屋敷に赴き騒動の取り静めにあたった。さらに1703年1月30日(元禄15年12月14日)、赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入りし本懐をとげたあと、幕府に命じられ9人の義士を三田中屋敷で預かった。同じく義士を預かった熊本藩の細川綱利が厚遇していることにならい、水野も義士たちをあつくもてなしたといわれ、これを江戸庶民は賞賛した。なお、義士たちを預かった三田中屋敷は現在、「水野監物邸跡」として東京都指定旧跡になっている。その後水野は、若年寄、京都所司代を経て幕府老中となり、8代将軍・徳川吉宗の時には財政再建の最高責任者である勝手掛老中に任命され、「享保の改革」を支え新田開発などを推進し幕府の財政再建にあたった。しかし、米価急落や不況などを招く結果となり、批判を受け老中を辞職、家督を譲って隠居した。晩年は落髪し「祥岳」と号した。墓所は茨城県結城市にある水野家墓所。

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