法正孝直ほうせいこうちょく

法正孝直ほうせいこうちょく

法正、字を孝直といい、扶風郡の人である。祖父は法真、父は法衍。子に法バクがいる。建安の初年、天下は飢饉に見舞われ、法正は同郡の孟達とともに蜀に行き、劉璋のもとに身を寄せた。しばらくしてから新都の令となり、後に召されて軍議校尉に任ぜられた。重要されないうえに、同じ村の出身でいっしょに掛け人になっていた者に品行が悪いと誹謗されて、志を得なかった。益州別駕の張松は法正と仲がよかったが、劉璋がともに大事を行う器量をもたないことを思いやって、いつも心中歎息していた。張松は荊州で曹操と会見して帰ってくると、劉璋に、曹操と絶交して劉備と結ぶように勧めた。劉璋が、使者は誰がよいかというと、法正を推薦した。法正は辞退したけれども、やむをえず赴いた。法正は帰ってくると、張松に劉備がすぐれた武略の持主であることを説明し、ひそかに相談して計画を同じくし、ともに君主として奉戴せんと願ったが、いまだ機会がなかった。後に、曹操が大将を派遣して張魯を討伐しようとしていると聞いて劉璋が恐怖の念を抱いているのを利用し、張松は劉備を迎え彼に張魯を討伐させるのがよいと、劉璋に進言し、ふたたび法正に命令をうけたまわらせた。法正は劉璋の命令を伝えた後、内々で劉備に献策して、劉備は劉璋と会見した。張魯討伐のため、北方葭萌まで行くと、南へとって返し劉璋をとらえた。劉備軍がラク城を包囲するに及んで、法正は劉璋に手紙を送って降伏を勧めた。214年、進軍して成都を包囲した。劉璋の蜀郡太守である許靖が城壁を乗り越えて投降しようとしたが、事が発覚して、果たさなかった。劉璋は危機が迫っているために、許靖を処刑しなかった。劉璋が降伏したのち、劉備はこの事件のため許靖を軽んじ起用しなかった。法正は進言して、実質をともない大業を成せる賢者として推薦した。劉備はそこで許靖を厚遇した。法正は蜀郡太守・揚武将軍に任命され、外は畿内を統治せしめ、内は策謀をあずからせた。以前加えられたわずかな恩恵、ほんのちょっとした怨みにも必ず報復し、自分を非難した者数人を勝手に殺害した。ある人が諸葛亮に、法正が好きかってにやりすぎると告げ口したが、諸葛亮は、劉備を補佐して大業を尽力してくれたのに、どうして法正のふるまいを静止できるか、といった。諸葛亮は劉備がつねづね法正を信頼しているのを知っていたので、劉備の不安を煽ることを避けるため、あえてこのようにいった。217年、法正は劉備に進言して、曹操が降した漢中を攻略し、領土拡大することを勧めた。劉備は賛成して、諸将を率いて漢中に兵を進め、法正もまた随行した。219年、劉備は陽平から南に向いベン水に渡り、山沿いに少しずつ進んで、定軍・興勢において陣営を張った。夏侯淵は兵を率いて来襲し、その地を奪い合った。法正が攻撃すべきというと、劉備は黄忠に命じて高所に登らせ、軍鼓をうちならし歓声をあげて攻撃させ、夏侯淵の軍勢を大いに撃ち破り、夏侯淵らの首を切った。曹操は西征してきたが、法正の献策を聞き知ると、「劉備はこのような策があるとは考えつかず、誰かに教えられたに違いない」くやしまぎれの言葉をいった。劉備が漢中王になると、法正を尚書令・護軍将軍に任命した。翌年、逝去した。享年45歳。劉備は何日間も彼を悼んで涙を流した。陳寿は「法正は判断力に優れ、並外れた計略の所有者であった。しかし、徳性について賞賛されることは全然なかった」と述べている。既に法正は病死していた222年、夷陵の戦いで劉備が大敗した際、諸葛亮は「法正がおれば、主上(劉備)の東征を止められただろう。もし東征を行ったとしても、今回のような大敗は必ずや避け得ただろう」と嘆いている。

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