津軽為信

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弘前藩の初代藩主。
幼名は扇。叔父・大浦為則の養子となった際は大浦弥四郎と名乗った。おもな官位は右京亮、右京大夫。
大浦氏の家督を継いだ津軽為信は大浦城に入り城主となると津軽中央への進出を図る。当時、津軽は南部氏が郡代を置いて統治していたが、為信は南部氏の内紛に乗じて津軽郡代を討ち南部氏からの独立を目指した。
津軽を手に入れるには中央へよしみを通じておくことが必要と考えた為信は豊臣秀吉に接近、1590年の小田原征伐の際も自ら出陣し秀吉に謁見している。こうした努力が功を奏し、小田原征伐後の奥州仕置で為信は秀吉から津軽3郡の領有を認められ正式に南部氏からの独立を果たした。
1600年の関が原の戦いでは東軍に属し、戦後、上野大館2000石を加増された。1603年には高岡での築城に着手するが南部為信が完成を見ることはできなかった。なお、この城がのちの弘前城である。
そして、1607年、病床にあった嫡男・信建の見舞いのため上洛したが、為信の到着を待たず信建は死去、あとを追うようにその2ヵ月後為信も京で没した。

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