王光美
王光美(おう こうび、ワン・クァンメィ、1921年9月21日 – 2006年10月13日)は中華人民共和国の政治家。元全国政治協商会議常務委員。夫は第2代中華人民共和国主席を務め、文化大革命で非業の死を遂げた劉少奇。息子は中華人民共和国解放軍上将の劉源。
北京で生まれ育つ。父・王治昌は早稲田大学商学部への留学経験があり、中華民国(北京政府)の高官であった。王光美の生誕時に父はワシントン会議の随行員としてアメリカ合衆国に滞在中で、「光美」の名前は、アメリカ(中国語で「美国」)にちなんでつけられた。10人の兄弟姉妹の6番目で、最初の女子であった。王光美は王治昌の3番目の妻との間の子で、異母兄が2人いたが、母は先妻の子も実子と区別せずに養育した。王光美は後年、自身が劉少奇と結婚して育児をした際に、母の影響を受けたと述べている。
北京の輔仁大学で原子物理学を専攻し、大学院に進んで理学修士の学位を得る。当時の輔仁大学では講義や学生寮での生活でも英語が使用されていた。1946年1月、語学の才能を見込まれて、知り合いの中国共産党員から、国民党・共産党・アメリカによる三者会談の実務者協議で通訳を依頼される。当初は備忘録の翻訳などを手がけ、3月からは葉剣英の通訳を担当するが、調停の不調により同年夏に実務者協議は終了する。博士課程でのアメリカ留学を考えていた王光美にはすでにスタンフォード大学とシカゴ大学から入学許可が下り、奨学金の取得も目処が付いていたが、迷った末にそれを取りやめて、共産党の本拠のある延安に行くことを決め、11月に延安入りする。
延安では軍事委員会外事組に属し、事務処理と通訳が業務であった[10]が、1947年3月に国共内戦で共産党が延安から撤退した際には、山西省の農村で農作業の支援など土地改革工作に約1年従事した[11]。1948年3月、共産党の中央工作委員会のあった河北省建屏県(現・平山県)に移動、再び軍事委員会外事組に戻る[11]。この時期、劉少奇と親密となり、同年8月21日に建屏県で結婚した。結婚後は中央弁公庁に移り、劉少奇の秘書となる[12]。また、劉少奇が以前の妻との間にもうけた子女のうち、幼かった2人を引き取って育てることとなった[13]。さらに1949年には、ソ連に留学していたもう1人(すでに成人していた)の女子も家庭に加わった[14]。王光美自身は劉少奇との間に1男3女をもうけている。
1959年に劉が国家主席に就任すると、「ファーストレディ」となる。1962年9月にインドネシアのスカルノ大統領夫人のハルティニが訪中した際、ホスト国の接待役として訪問先に同行し「人民日報」の紙面に連日報じられたが、これに毛沢東夫人の江青が反発し、数日後に江青は毛沢東とともにハルティニ夫人を歓待、初めて公式の場に現れることになった[15]。
1949年
|
|
プロフィール | |
---|---|
出生: | 1921年9月21日 |
死去: | 2006年10月13日 |
出身地: | 中華民国(北京政府)、北京市 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 王光美 |
簡体字: | 王光美 |
拼音: |
Wáng Guāngměi |
和名表記: | おう こうび |
発音転記: | ワン・クァンメィ |
反応