王甫国山おうほこくざん

王甫国山おうほこくざん

王甫、字を国山といい、益州広漢郡郪県の人である。子は王祐、従兄は王士がいる。劉璋時代、州の書佐となった。劉備が蜀を平定した後、綿竹の令となり、荊州の議曹従事に移った。劉備の呉征伐に随行し、蜀軍が秭帰で敗れた際、殺害された。人物評価や議論を好んだ。立派な風格をもち、心ばえよく、蜀の誉れとなる人であった。『三国志演義』では、随軍司馬として関羽の補佐をつとめる。荊州を狙う孫権軍や、荊州守備を担当する配下の糜芳・傅士仁・潘濬に警戒して、趙累を起用するよう進言した。しかし関羽は特に心配せず、これらの言を採用しない一方で、有事に備えるために烽火台を作るよう王甫に命令していた。その後、呂蒙により烽火台は押さえられ、荊州は陥落し、関羽は、王甫の諫言を聞かなかったことを悔やむことになった。王甫は麦城から逃れ出ようとする関羽に対して、間道は伏兵の危険があるため、街道を進むべきと諌めた。しかし、またしても関羽はこれを聞こうとしなかった。仕方なく王甫は、周倉と共に麦城の留守を守ることになった。王甫の案じたとおり関羽は伏兵に捕われて、殺されてしまった。孫権軍により掲げられた関羽・関平父子の首級を見た王甫は、その後を追って櫓から身を投げ、自殺した。

反応