王連文儀おうれんぶんぎ

王連文儀おうれんぶんぎ

王連、字を文儀といい、南陽郡の人である。子は王山がいる。劉璋の時代に蜀に入って、梓潼の令となった。入蜀した劉備は、劉璋が対立して葭萌で兵を戻し、南方へと進撃したさい、王連は城門を閉ざして降伏しなかった。劉備はその義心に感じ、無理に圧力をかけようとはしなかった。成都が平定されたのち、王連を什ホウの令とし、広郡県に転任させたが、それぞれの任地で業績をあげた。司塩校尉に昇進し、塩・鉄の利益を全面的に管理し、国庫の収入が非常に増え、国の予算に利するところがあった。このとき、有能な者を選抜して属官に任用した。呂乂、杜祺、劉幹などの人物は、しまいにはみな大官になったが、王連によって選抜された連中なのである。蜀郡太守・興業将軍に昇進したが、塩府の仕事を担当することは前のとおりであった。223年、屯騎校尉に任命され、丞相長史を兼務し、平陽亭侯に封じられた。当時、南方の諸郡が服従しないので、諸葛亮はみずから征討に赴こうとした。王連は諫言して、「あそこは不毛の荒地であり、風土病の多い土地です。一国の期待を担う方が危険をおかして出かけるのはよろしくありません」と主張した。諸葛亮は諸将の才能が自分に及ばないのを考慮したので、どうしても行く決意であったが、王連が言葉を発する度に懇願するので、長い間、都に留まっていた。その後、またまた王連は亡くなった。享年不明。劉備や諸葛亮などに評価され、南征を思い留ませるほどの発言力があり、優秀にして功績が大きい人物だったのである。しかし正史本伝では、記述は少なく評や注釈もない。王連死後の二年後に、諸葛亮は南征を行っている。小説『三国志演義』には登場しない人物である。国家の予算収支を支えた功績でありながら、レアな人物である。

反応