田中玄宰

田中玄宰

江戸時代中期から後期の武士、陸奥国会津藩の家老。通称は小三郎、加兵衛、三郎兵衛。「東藩の名臣」とあだなされた。34歳で家老に就任すると、会津藩5代藩主・松平容頌(かたのぶ)、6代藩主・容住(かたおき)、7代藩主・容衆(かたひろ)の3代に仕え名家老と讃えられた。玄宰が家老に就任した当時、会津藩は天明の大飢饉の大被害などで困窮状態にあり、財政的にも非常に窮乏していた。玄宰は5代藩主・容頌に「天明の大改革」建議書を上申し、改革を提言、これを許されると大改革に乗り出した。玄宰は、荒廃した農村の復興、養蚕業の奨励、殖産興業の振興、武備の強化、藩校「日新館」を設立しての文武奨励などを行い、見事に藩を復活させた。遺言により、鶴ヶ城と日新館を見渡せる小田山の山頂に墓がつくられた。子孫に「国際的フィクサー」といわれた政治活動家の田中清玄(きよはる/せいげん)がいる。

反応