田結穣

田結 穣(たゆい みのる, 1890年(明治23年)1月20日 – 1977年(昭和52年)6月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。

岐阜県安八郡大垣町(現大垣市)出身。旧制岐阜県立大垣中学校より海軍兵学校第39期入校。入校時成績順位は150名中第11位、卒業時成績順位は149名中第2位。

田結は艦船勤務を経てイギリス駐在となるが、主要国への駐在任務は海軍大学校甲種課程修了後に行われるのが慣例で、井上成美などの例はあるものの、異例な存在であると言える。

帰国後、海軍大学校甲種課程を経て1933年(昭和8年)に軍令部第1部甲部員に配置される。甲部員は第1部長直属部員とも呼ばれ、太平洋戦争指導は該職が行ったが、甲部員制度自体が海軍部内ですら極秘の存在[要出典]のため、現在に至るも殆ど該内容の解明がなされていない。日本海軍研究の空白が生じる部門の1つである。甲部員について証言を残した者は、大野竹二と大井篤だけだったと言って過言では無い。

海軍中将・田結穣
生誕 1890年1月20日
日本 岐阜県安八郡大垣町
死没 (1977-06-28) 1977年6月28日(87歳没)
所属組織 日本海軍
軍歴 1912 – 1945
最終階級 海軍中将
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