田豊元皓でんほうげんこう

田豊元皓でんほうげんこう

田豊、字を元皓といい、鉅鹿郡の人とも渤海郡の人ともいわれる。初め太尉府に召され、茂才に挙げられて侍御史となったが、朝廷では宦官が跋扈し、賢人が害を被っていたので、官を棄てて家に帰った。190年、袁紹は董卓征討の義兵を挙げ、翌191年7月、冀州の牧の韓馥を脅して州を奪った。当時、田豊は沮授・審配や張郃らとともに韓馥に仕えていた。袁紹は丁重な礼で田豊を招致した。田豊は王室の多事多難を重い、これを何とかしたいと考えていたので、応じて別駕に任命された。袁紹は十数万の兵を率いて、曹操の本拠地の許を襲う態勢を整えた。199年12月、曹操は官渡まで進出して、これに対抗した。しかし、袁術討伐を命じられた劉備が沛で独立を図ったため、曹操は諸将を官渡に駐めて、翌年正月、自ら精鋭を率いて徐州に向かい、大いに劉備軍を破って関羽を擒にした。田豊は曹操の不在の間に、一気に許を襲うべしと袁紹に勧めた。しかし袁紹は子の病気を理由に提案を却けた。田豊は杖を挙げて地を叩き、「滅多にない機会を得ながら、赤児の病いでこれを逃すとは」と口惜しがった。范曄の『後漢書』では、田豊は「ああ、事去れり」と嘆き、これを伝え聞いた袁紹に疎んじられるようになった、とある。劉備は敗れて今度は袁紹に身を寄せた。200年2月、袁紹は郭図・顔良らに白馬を守る東郡太守劉延を攻撃させ、自分は黎陽に行き、黄河を渡ろうとした。田豊は袁紹にその無謀を諫めた。「曹公は用兵に巧みで、兵力が少ないといって軽んじてはならない。持久戦に持ち込んで、その間に外は四方の英雄と手を結び、内は兵事と農事を整えるべきである。敵の虚に乗じて奇襲部隊を分遺すれば、敵は奔命に疲れ、二年もしないうちに居ながらにして勝てましょう。成敗を一戦で決しようとしても、もしも思いどおりにならなければ悔いても及ばない」しかし、これも受け入れられなかった。諫言した田豊は袁紹に枷を嵌められて投獄された。そして勇将顔良・文醜は敗死、官渡を守る曹操を破れないうちに鳥巣の輜重を焼かれ、形勢は一気に逆転した。10月、袁紹軍は雪崩をうって敗走し、軍勢の大半が失われた。兵士たちはみ胸を叩いて「もしも田豊がいたならば、こうして憂目を見るまいに」と泣いたという。袁紹は部下の逢紀に「冀州の人は我が軍の敗北を聞いて、私を案じているに違いない。田別駕は人々と異なって、前に私を諫止してくれた。私は彼に合わせる顔がない」と言った。逢紀はもともと田豊と不仲で、それまでも田豊のことを悪様に言っており、袁紹が田豊の意見を信用しない一因になっていた。またもや彼は、「田豊は将軍の退却を聞くと、手を打って大笑いして、自分の言葉が的中したと喜んでいます」と讒言した真に受けた袁紹はついに田豊を殺害してしまった。生来、人並み優れた才能の持主で、権謀機略に富み、書物を博覧して知識を得、これによって州の人々から重んじられた。袁紹伝において、袁紹に諫言し投獄されたあと、ある人が田豊に「敗北を懸念されていた君は、必ず重用されましょう」と言うと、田豊は「勝ていたならば身を全うすることも出来たろうが、敗けたからには私はきっと殺される」と答えた、と記されている。袁紹は外面は伸びやかで上品、度量があって喜怒を顔に表さなかったが、内心は嫌悪の感情が渦巻いていた。田豊殺害はその一例である。初め、曹操は田豊が従軍していないと聞くと喜んで、「袁紹は必ず負ける」と言い、袁紹が逃走するとまた「もしも彼が田別駕の計を用いていたならば、どうなっていたかわからない」とも言った。陳寿の評では、「昔、項羽は漢の高祖劉邦を鴻門の会で殺せという范憎の謀に背いたために、その王業を失ってしまった。袁紹が田豊を殺した一件は、これより遙かに酷いことだ」と述べている。歴史家の孫盛は「田豊・沮授の智謀は、張良・陳平に匹敵する」と賞賛している。裴松之は「主君を誤ったがために忠節を尽くして死ななければならなかった」と慨嘆している。『三国志演義』でも、正史のほぼ全ての事跡について史実通りであり、暗君に忠義を尽くして悲劇的な最期を遂げた人物として描かれている。ただ最期の場面では、田豊は官渡での敗北を聞いて、すでに自身の運命を悟り、獄中で自害し果てていたことになっている。

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