白隠慧鶴

白隠慧鶴

江戸時代中期の禅僧で、「臨済宗中興の祖」と称される。幼名は岩次郎、別号に鵠林(こうりん)。駿河国原宿(現・静岡県沼津市)の長沢家の三男として生まれる。子どもの頃、寺で地獄のようすを知ると恐怖し、12歳の時に出家を発心すると、15歳の時、地元の松蔭寺にて出家した。以来、一心に修行し、24歳で悟りを開いたが満足せず、その後も修行に励み生涯で36回悟りを開いたといわれる。白隠は全国を行脚して布教に努め、ついに「500年に一度の名僧」と賞されるほどの高僧となり、当時衰退していた臨済宗を復興させ現在の臨済宗の原型をつくりあげた。今日、坐禅の前に唱和される「坐禅和讃」も白隠が書いたもの。「駿河には過ぎたるものが二つあり富士のお山に原の白隠」と歌われた白隠は、禅画をよくし達磨や釈迦、観音などを描いたおびただしい数の書画を残しており、現在、松蔭寺に多数保存されている。また、『夜船閑話(やせんかんわ)』『遠羅天釜(おらでがま)』など著作も多く、その中で白隠が考案した健康法「内観の秘法」なども紹介されている。墓所の松蔭寺は静岡県の県指定史跡となっている。

反応