相馬盛胤

相馬盛胤

陸奥相馬氏15代当主で陸奥国行方郡小高城主。
母は伊達政宗の曽祖父・稙宗の娘で、妻は稙宗の姪。別名は孫次郎。おもな官位は弾正大弼、従四位下。
伊達氏と密接な血縁関係にあり良好な関係を築いていた相馬盛胤だが、1542年から伊達稙宗とその長男・晴宗の間で「天文の乱」が勃発すると相馬氏と伊達氏の関係は悪化する。1549年に家督を相続した盛胤は、伊達晴宗とその子・輝宗、さらに孫の政宗としばしば交戦、その争いは半世紀にもおよんだ。1583年、丸森城と金山城を返還し伊達氏とついに和睦。
その後、再び伊達政宗と争うようになり一時は相馬氏滅亡の危機に立たされるまでに追い詰められた。だが、小田原征伐が始まったため政宗との争いは中断、豊臣秀吉から所領を安堵され相馬氏は生き残ることができた。

反応