真田幸弘

真田幸弘

江戸時代中期から後期の大名、信濃国松代藩の6代藩主。「松代中興の名君」と称えられる。幼名は豊松、別名は幸豊、官位は従四位下、右京大夫、伊豆守、弾正大弼。5代藩主・信安の子として生まれ、父の死後、13歳の若さで藩主となった。当時の松代藩は藩主の生活費にも困るほどに財政破綻しており、藩政は混乱していた。そこで幸弘は恩田民親(木工、杢とも)を抜擢し藩政改革に着手。改革の内容を藩士だけでなく、領民にまで説明し総意を得ると、徹底した倹約、支出の削減などを推進し窮状からの脱却に成功した。恩田杢の死後は幸弘が藩政を主導し、藩校「文学館」を設立して教育の普及を図るなど文化政策を行った。江戸の南部坂にある屋敷で没した。墓所は長野市松代町にある真田家の菩提寺・長国寺。

反応