磯貝十郎左衛門

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江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。十郎左衛門は通称で、名は正久。幕臣に仕える武士の子として生まれたが、主家の断絶により父が浪人となると、美少年だった十郎左衛門は京の愛宕山教学院の稚児小姓となった。14歳の時、父と懇意だった赤穂藩士・堀部弥兵衛の紹介で赤穂藩主・浅野内匠頭長矩の小姓となり、美青年で利発、しかも文武に秀でていた十郎左衛門は長矩の寵愛を受け、出世の階段を駆け上っていった。児小姓頭だった片岡源五右衛門とは非常に仲がよかったという。主君・長矩が江戸城にて刃傷事件を起こした時は江戸におり、切腹した長矩の亡骸を引き取り泉岳寺に埋葬した。この時、墓前にて髻(もとどり)を切ると仇討ちを亡き主君に固く誓った。赤穂へ戻り即時仇討ちを説いたが大石内蔵助の同意を得られず、失望した十郎左衛門は江戸へ戻り、以後、江戸急進派とも距離を取り独自の行動をとった。その後、吉田忠左衛門のとりなしで義盟に参加した。討ち入りの際は裏門隊に属し、手槍を武器に奮闘。戦闘時、夜明け前ということもあり屋敷内は真っ暗だったが、十郎左衛門はとっさに機転をきかせ吉良邸にいた小者を捕まえると各所にろうそくを点させた。のち、取り調べにあたった幕府大目付・仙石伯耆守は十郎左衛門のこの働きを褒めている。本懐をとげ泉岳寺に引き上げる途中、十郎左衛門の母が危篤状態であることを知っていた大石内蔵助は、十郎左衛門の家が往路にあったため母を見舞うよう勧めたが、十郎左衛門はその申し出を固辞した。熊本藩・細川家屋敷にお預けののち、切腹。墓所は主君・浅野内匠頭長矩や赤穂浪士たちと同じ高輪の泉岳寺。幼い頃から能や琴などの芸事に優れていた十郎左衛門らしく、遺品のなかに琴の爪がひとつあったという。

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