祇園南海

祇園南海

江戸時代中期の文人画家、儒学者、漢詩人。桑山玉洲、野呂介石とともに「紀州三大南画家」といわれる。また、服部南郭、柳沢淇園、彭城百川とともに「日本文人画の祖」とされる。本姓は源、名は与一郎、正卿、瑜、字は白玉、通称は余一。号はほかに蓬莢、鉄冠道人、箕踞人、湘雲、信天翁、観雷亭など。紀州藩医・祇園順庵の子として江戸で生まれ、儒学者・木下順庵に入門し儒学を学んだ。若い頃から詩の才能を発揮し、同門の新井白石もその詩を絶賛したという。父の死をうけ、紀州藩に藩儒として仕えるが、不行跡から知行は召し上げ、城下追放となった。その後、徳川吉宗が紀州藩の新藩主となると許され、朝鮮通信使の接待役や紀州藩の藩校「講釈所(湊講館)」の校長などを務めた。画業を本格的に始めたのは50歳頃といい、中国渡来の画譜から文人画の技法を独学した。作品に「墨梅図」「紅梅図」など。著書に『一夜百首』『南海詩法』など。墓所は和歌山市吹上にある妙法寺。

反応