程秉徳枢ていへいとくすう

程秉徳枢ていへいとくすう

程秉、字を徳枢といい、汝南郡の南頓の人である。鄭玄が生きているうちにその教えを授かることができた。のちに世の中の混乱を避けて交州に移住し、その地にいた劉煕とものごとの根本原理について互いに論じ合い、その結果、博く五経に通じるようになった。士燮は、程秉を長史に任命した。孫権は、程秉が優れた学者であると聞くと、手厚い礼でもって彼を招聘し、彼がその招きに応じてやって来ると、太子太傅の任を授かった。225年、孫権が太子の孫登のために周瑜の娘をめとってやったときには、程秉を太常の職にあてて、呉まで妃を迎えにゆかせた。孫権は、呉へ出発する程秉の船まで親しくやってくると、鄭重な礼でもって程秉を送り出した。呉からもどったあと、程秉はなにげない場で孫登に説き聞かせて、婚姻と人倫について語り、夫婦仲睦まじきことを『詩経』に例えて、礼儀を尊ぶようにいった。孫登も笑って、程秉を期待して頼りにした。その後、程秉は、病気のため在官のまま死去した。享年不明。程秉は『周易摘(しゅうえきてき)』『尚書駁(しょうしょはく)』『論語弼(ろんごひつ)』など合わせて三万余字の著述をのこした。正史本伝では、記述が少なく、また彼は厳シュン、カン沢らと並んで一代の学者であると評された。また、『正史三国志群雄銘銘伝』によると、本伝のある人物で自分の伝以外に全く登場しない唯一の人物だという。小説『三国志演義』では、孫権が呉の国主となって集めた賢人の一人として名が挙がる。赤壁の戦いのときは曹操への降伏を主張し、諸葛亮と論戦するがあっけなく敗れた。その後、劉備が関羽の仇討ちのために呉に攻め込んできたとき、孫権の使いとして派遣され、張飛を暗殺した張達らの身柄を劉備に差し出すが、劉備の怒りは収まらず申し入れを一蹴され、程秉は命からがら呉に逃げ帰った。

反応