立花止

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立花 止(たちばな いたる、1903年(明治36年)3月29日 – 1954年(昭和29年)6月7日)は、日本の海軍軍人。米国駐在時代に情報活動に従事しFBIに逮捕され国外追放処分を受ける(立花事件)。最後の連合艦隊参謀の一人である。最終階級は海軍大佐。

熊本県出身。鹿本中学を経て海軍兵学校に進む。海兵52期で源田實、内藤雄、淵田美津雄らが同期生である。1925年(大正14年)少尉任官。立花は運用術航海学生を修了した航海科専攻の士官で、駆逐艦「吹雪」、「漣」、軽巡洋艦「川内」、重巡洋艦「三隈」の航海長を務めている。

大尉時代は練習艦隊参謀兼副官として、海兵60期(板谷隆一クラス)らの遠洋航海に参加。満州事変の影響で日米は緊張状態にあったが、司令官・百武源吾を補佐して北米方面に向かい歓迎を受けた。海兵教官、連合艦隊参謀兼副官を2度(計1年8ヶ月)務め、軍令部三部出仕を経て少佐へ進級。海大甲種36期を卒業した。中山定義らが同期である。1939年(昭和14年)6月から米国ロサンゼルス駐在となるが2年後の6月6日、逆スパイにかけられFBIに逮捕される。岡田貞外茂とともに国外追放処分となり日本に帰国した。日米開戦は目前に迫っており、軍令部第三部部長(前田稔)直属部員に配置される。第三部は急ぎ米国に情報要員を送り込んでいるが、真珠湾攻撃後は連絡が途絶えた

1943年(昭和18年)10月に南東方面艦隊参謀に就任し草鹿任一を補佐。米軍の攻勢が強まり、連日の航空戦が繰り広げられた時期である。1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲によりトラック基地が壊滅的被害を受け、ラバウルの航空兵力は同基地へ転用された。航空兵力を失った南東方面艦隊はラバウルでの篭城態勢をとることになる。同年4月には海軍乙事件が発生。古賀峯一をはじめ航海参謀・大槻俊一ら連合艦隊司令部がほぼ全滅し、立花は大槻の後任として連合艦隊へ転出した。同年10月には海上護衛総司令部参謀を兼務、1945年(昭和20年)5月に海軍総隊戦務参謀となる。レイテ沖海戦、天号作戦、海上護衛作戦などに関わるが敗戦を迎え、同年11月予備役編入となった。

生誕 1903年3月29日
死没 (1954-06-07) 1954年6月7日(51歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1925年 – 1945年
最終階級 海軍大佐
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