竹田五郎

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竹田 五郎(たけだ ごろう、1921年(大正10年)10月24日 – )は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、軍事評論家。最終階級は陸軍では陸軍大尉、航空自衛隊では統合幕僚会議議長たる空将。第14代航空幕僚長、第12代統合幕僚会議議長

陸軍航空士官学校(第55期)出身の生粋のパイロット(操縦者)であり、1942年(昭和17年)から作戦に参加。当初は飛行第90戦隊に所属し九九式双軽爆撃機で中国戦線に従軍。太平洋戦争後期には飛行分科を軽爆から戦闘に転科し、戦闘機操縦者として飛行第244戦隊に配属され、三式戦闘機「飛燕」・五式戦闘機(キ100)に搭乗し敗戦まで本土防空戦に従事した。夜間戦闘中に被弾し、松戸飛行場に不時着した際、片翼は穴だらけで「これでよく無事に生還できたものだ」と同僚に言われたという。最終的に第244戦隊では第2飛行隊長(とっぷう隊。旧第2中隊の後身)を務めている。

その後、社会党は、竹田を退職金や年金が受け取れない懲戒免職ではなく、防衛庁長官からの厳重戒告を受けた依願免職という形で決着させることを約束した。

陸軍大尉で終戦を迎え、戦後、一時期は民間に就労するが、飛行機に乗れそうだと1951年(昭和26年)12月、警察予備隊入隊。自衛隊では操縦第1期生、保安隊時代にはL-16を旭川に空輸した。戦後、北海道の空を日の丸のついた飛行機で初めて飛んだことが自慢だという。その後、第6航空団司令、南西航空混成団司令等の要職を歴任し、1976年(昭和51年)9月6日に発生したベレンコ中尉亡命事件の際は北部航空方面隊司令官として対応した。航空総隊司令官を経て1978年(昭和53年)3月、第14代航空幕僚長に就任。さらに翌1979年(昭和54年)8月には第12代統合幕僚会議議長に就任した。

1981年(昭和56年)、統幕議長在任中において、雑誌記事(月刊誌宝石3月号)にて「徴兵制を違憲とする政府統一見解」及び「防衛費GNP比1%枠」の二点に異を唱え専守防衛政策を批判した。これに対し社会党は衆議院予算委員会において竹田の懲戒免職を要求、同委員会は紛糾した。大村襄治防衛庁長官が竹田を戒告処分とし、これを受けて責任を取る形で同年2月16日付で退官
(ちなみに2代前の栗栖弘臣も、有名な「超法規行動」発言が原因でやはり解任されている)。民間では軍事評論家となる。

竹田五郎。1980年。
生誕 1921年10月24日
日本 福岡県
所属組織 大日本帝国陸軍
警察予備隊
保安隊
航空自衛隊
軍歴 1941 – 1945(日本陸軍)
1951 – 1952(予備隊)
1952 – 1954(保安隊)
1954 – 1981(空自)
最終階級 陸軍大尉(日本陸軍)
統合幕僚会議議長たる空将(空自)
除隊後 軍事評論家
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