緒方洪庵

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江戸時代後期の蘭学者、医者、武士。大坂で蘭学塾「適々斎塾(てきてきさいじゅく)」(通称:適塾)を開き、福澤諭吉など幕末から明治にかけて活躍した人材を数多く輩出した。適塾は現在の大阪大学医学部の前身とされる。諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号はほかに適々斎、華陰。備中国足守藩(現・岡山県岡山市北区足守)の下級藩士・緒方瀬左衛門の子として足守に生まれ、のち父の転勤にともない大坂へ移住、生来、病弱だったことから医学の道をめざすようになり、蘭方医・中天游の私塾「思々斎塾」に入り医学と蘭学を学んだ。その後、江戸へ出ると蘭方医・坪井信道(しんどう)や宇田川玄真らからも指導を受けた。長崎へ遊学に出るとオランダ人医師ニーマンのもとで医学を学んだといわれ、この頃から「洪庵」と名乗るように。大坂へ戻ると瓦町(現・大阪市中央区瓦町)にて蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開くと同時に医者としても開業した。洪庵の名が高まり門弟が増えたこともあり適塾を過書町(現・大阪市中央区北浜三丁目)に移転、全国から俊英が集まり門人は637人を数えたという。そのなかには福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎らそうそうたる顔ぶれがいた。また「マンガの神さま」手塚治虫の祖父・手塚良仙も適塾の塾生である(手塚治虫のマンガ『陽だまりの樹』にくわしい)。牛痘苗が輸入された際にはこれを入手し、古手町(現・大阪市中央区道修町)に「除痘館(じょとうかん)」を開き種痘を行い、苦労の末に官許を得て天然痘の予防に大きく貢献した。ちなみに、洪庵自身も8歳の時に天然痘にかかったことがあった。晩年、度々幕府に請われ奥医師および西洋医学所頭取となり江戸へ出たが、ストレスや過労などもあり多量の血を吐いて急逝した。墓所は大阪市北区同心にある龍海寺と東京都文京区にある高林寺。著作も多く、代表的なものとして日本初の病理学書『病学通論』、コレラ(天然痘)の治療手引書『虎狼痢治準』などがある。非常に温厚な性格で、弟子たちにも声を荒げたことはなかったという。妻の八重も門人たちから母親のように慕われたといわれる。日本における医学の近代化に大きな功績を残した洪庵はフィクションにもたびたび登場する。代表的な作品として、小説では司馬遼太郎『花神』、漫画では手塚治虫『陽だまりの樹』や村上もとか『JIN-仁-』などがある。

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