胡軫文才こしんぶんさい

胡軫文才こしんぶんさい

胡軫、字を文才といい、涼州の人である。董卓の配下となって、涼州で辺章・韓遂・馬騰らが羌・胡の協力を得て反乱を起こすと、付き従ってこれらを大いに破った。董卓が中央政権を握ると、陳郡太守に任じられた。191年、孫堅が陽人まで進攻してくると、胡軫は大督護に、呂布も騎督に任命されて、ともにこれを迎撃した。胡軫は武勇には秀でていたが、傲慢なうえ短気であったため、呂布との仲も悪かった。そのため、胡軫は呂布に詐られ、華雄を討ち取られるなどして、孫堅軍に敗れた。192年、董卓が殺害されると、徐栄とともに王允に従った。李傕、郭汜が長安に攻め込んでくると、王允は胡軫、徐栄、楊定らに新豊で迎撃させた。胡軫は王允の傲慢な態度に反感していたので、楊定とともに李傕に寝返った。そのため、徐栄は敗れて戦死し、王允は李傕らに捕らえられて処刑された。のちに司隷校尉となった。胡軫は、かねてから仲が悪かった馮翊郡の功曹の游殷を無実の罪で処刑した。しかし一ヶ月余りして、胡軫は病気に罹り「私が悪うございました」と譫言を口走りながら死んでしまった。胡軫の死を聞いて、人々は游殷を褒め称えたという。『三国志演義』では、董卓討伐軍が挙兵したとき、胡軫は華雄の副将として孫堅率いる軍勢を迎え撃つが、その部将程普によって討ち取られている。ただし史実では、華雄の方が胡軫の部下である。

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