茅野和助

茅野和助

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。和助は通称で、名は常成(つねなり)。美作国津山藩(岡山県津山市)の森家家臣の子として津山に生まれ、森家に仕えたあと、赤穂藩浅野家に再仕官した。なお、おなじく義士の神崎与五郎ももと津山藩森家の家臣。武術の達人で自眼流居合いをよくし、また弓にも優れていた。一方、俳諧もよくし「禿峰」という雅号を持っていた文武両道の士である。和助は赤穂藩内では最も身分の低い藩士のひとりで、主君・浅野内匠頭長矩に仕えてまだ4年目と新参だったが、主君・長矩が切腹するとすぐに義盟に加わった。江戸では磯貝十郎左衛門と同居し、町人になりすまして吉良方の動向を探った。討ち入りの際は裏門隊に属し、半弓を武器に奮戦、討ち入り後は三河国岡崎藩の水野監物屋敷にお預けとなり、のち切腹。辞世の句は「天地の外にあらじな千種だに本さく野べにかるると思へば」。墓所は主君・浅野内匠頭長矩や赤穂浪士たちと同じ高輪の泉岳寺。

反応