荀攸公達じゅんゆうこうたつ

荀攸公達じゅんゆうこうたつ

荀攸、字を公達といい、広陵郡の人である。甥は荀彧、子は荀緝、荀適がいる。祖父の荀曇(じゅんたん)は広陵太守であった。荀攸が幼いときに父荀彝を失った。荀曇が亡くなると、もと下役の張権が荀曇の墓守りをしたいと願い出た。荀攸はそのとき十三歳であったが、これに疑惑を抱き、叔父の荀衢(じゅんく)に向かって、「この者はただならぬ様子だから、悪いことをしたのでしょう」といった。荀衢は思い当たり、取調べをすると、案の定殺人を犯して逃亡してきたのであった。このことから荀衢は荀攸を高く買うようになった。『魏書』によると、荀攸が七、八歳のころ、荀衢が酔っぱらい、誤って荀攸の耳を傷つけたことがあった。ところが荀攸は部屋を出たり入ったりして遊びまわるとき、いつも耳を隠して、荀衢の目にとまらないようにしていた。荀衢は後になってこのとこを聞き知り、そこではじめてびっくりした。その利発ぶりは上の例のごとくであった。漢の何進は権力を掌握すると、荀攸ら海内の名士二十人あまりを召し寄せた。荀攸はお召しに応じ、黄門侍郎の位を授けられた。董卓が乱を起こし、関東地方(東中国)で反董卓連合による戦争が起こり、董卓は長安遷都を行なった。荀攸は議郎の鄭泰らや、越騎校尉の伍瓊らと謀議をこらし、董卓誅殺を企てた。計画直前になって事が露見し、荀攸は逮捕・投獄された。ちょうど董卓が殺されたため助かり、官位を棄てて帰郷した。再度公府に召され、優秀な成績で推挙され、任城の相に昇任したが、赴任しなかった。荀攸は蜀漢の地が険固で、住民も豊かであることから、みずから求めて蜀郡の太守となったが、交通が途絶えていて行きつくこともできず、途中の荊州に滞在した。曹操は天子を迎えて許に都を置いたとき、荀攸に文書を送って、誘って召し出し汝南太守に任じ、ついで中央に呼んで尚書に任じた。曹操はかねてから荀攸の名声を聞き知っていたが、いっしょに話しあったあと大満悦で、荀イクと鍾ヨウに向かって、なみなみならぬ人物で、自分と荀攸が事を計れば、天下に何の憂いもないといい、荀攸を軍師とした。198年、荀攸は張繍征伐に随行した。荀攸は曹操に向かって、張繍と劉表は互いに助け合い強力であって、離反させて誘いかけ、味方に引きれるべきだと進言した。曹操はこの意見に従わず、そのまま進軍し、交戦した。張繍が危うくなると、劉表は張繍を救援し、曹操の軍は負け戦となった。曹操は荀攸に向かって、「君の意見を用いなかったためにこんな羽目になったわい」といった。そこで奇襲部隊を設けて再び交戦し、さんざんにこれを撃破した。同年、曹操は宛から呂布征伐に出発し、下ヒに到着した。呂布は敗北して退却し、下ヒ城を固守した。これを攻撃したが攻め落とせず、うち続く戦闘で、将兵は疲労しきっていた。曹操は帰還しようと考えたが、荀攸は郭嘉とともに、呂布は勇猛であるが智略がなく、陳宮は智恵はあってもぐずで定まらず、気力が回復する前に厳しく攻め立てれば、落とすことができると進言した。そこで水を引いて城にそそぎかけ城壁を破壊し、呂布を生け捕りにした。200年、白馬にいる劉延救援に随行し、荀攸は計略を立てて顔良を斬り殺した。曹操は白馬の敵を撃破して帰途につき、輜重隊を出発させ、黄河に沿って西へ向かった。袁紹は、黄河を渡ってあとを追い、突然曹操の軍と出くわした。曹操の諸将は引き返して陣営を守ったほうがよいと進言したが、荀攸はこれを反対して、曹操は荀攸に目配せして笑った。かくて、輜重隊をおとりにして敵軍をつったところ、敵は争ってこれに駆けより、陣形が乱れた。そこで歩兵・騎兵を放って攻撃して、大いに敵を打ち破り、その騎兵隊長の文醜を斬り殺した。曹操は、かくして袁紹と官渡で対峙することとなったが、兵糧がちょうど底をついたとき、荀攸は曹操に向かって、敵の輸送隊の韓猛は油断しているから、これを攻撃するように進言し、徐晃と史渙を派遣させて、その輸送隊を撃破した。おりしも許攸が降伏してきて、袁紹は淳于瓊らに一万余の軍を率いさせ、輸送されてきた食料を迎えにいかせているが、大将はおごり高ぶり、兵卒はだらけているゆえ、迎撃すべきだと述べた。人々はみな疑惑を抱いていたが、荀攸と賈クだけは曹操に勧めた。曹操はそこで荀攸と曹洪を留守に残し、みずから指揮をとってこれを攻撃し、打ち破って、淳于瓊らをことごとく斬り殺した。袁紹の大将の張コウと高覧は、攻撃用の橋を焼き払って降伏し、袁紹はけっきょく軍兵を置き去りにして逃走した。張コウがやってくると、曹洪は疑惑を抱いて迎え入れようとしなかったが、荀攸が曹洪を説得したので、ようやくこれを迎え入れた。202年、黎陽にいる袁譚・袁尚の討伐に随行した。翌年、曹操が劉表征伐に赴いた間に、袁譚と袁尚が冀州の支配権をめぐって争いを始めた。袁譚が降伏したいと願い出て、救援を要請してきた。曹操は許可しようとし、大勢の臣下に相談したが、多くは劉表は強力であるゆえ、これを先に平定するのが妥当と主張した。荀攸は、劉表は野心を持たず、保持して動かないので、北方は袁紹が死んで兄弟互いに憎しみ、力が一つにまとまりないので、平定すべきだと進言した。曹操はそこで、袁譚の申し入れを認め、引き返して袁尚を撃破した。その後、袁譚が背くと、荀攸は曹操に随行して袁譚を南皮で斬り殺した。曹操は荀攸の爵位について上表し、陵樹亭侯に封じられた。207年、命令が下されて大々的に論功行賞が行われた。曹操は、「忠義公正、よく緻密な策略をたて、国の内外を鎮撫した者としては、文若(荀イク)がこれに該当し、公達(荀攸)がその次に位置します」と述べた。中軍師に転任となった。曹操が魏公になると、尚書令となった。214年、荀攸は孫権征伐に随行の途次、逝去した。享年58歳。曹操は、彼の話をするたびに、涙を流して悲しんだ。曹操は北方平定で柳城から帰還する際に、荀攸の宿舎に立ちより、荀攸の前後にわたる計策と勲功を称えて、「いま、天下の事はほぼ落ち着いた。わしは賢明な士大夫たちとともに、その労をねぎらいたいと思う。昔、高祖は、張良に自分で領地三万戸を選択させたが、いま、わしも君に自身で領地を選んでもらいたいと思っている」といった。郭嘉と並んで、北方平定に大きな功績をもたらした人物であることは明確である。荀攸は思慮が深く緻密で、事を処理する判断力と身の危険を避ける英知をもっていた。曹操の征伐に随行するようになってからは、いつも陣幕の内で計り事をめぐらせていたが、当時従事した者や肉親たちのうち、その発言の内容を知っているものは誰もいなかった。曹丕が太子であったころ、曹操は曹丕に、「荀公達は、人の手本となる人物である。おまえは、礼をつくして、彼を尊敬しなければならぬぞ」と語った。荀攸がかつて病気になったとき、太子(曹丕)は見舞いに訪れて、ただ一人寝台の下で拝礼をした。荀攸はこれほどまでの敬意と特別扱いを受けたのである。魏の相国となった鍾ヨウは、荀攸の意見は人の考えの上をいくのが常だったといっていた。荀攸が前後に亘って立てた奇策は合計して十二個あったが、仲が良かった鍾ヨウしかその内容を知らなかった。 鍾ヨウは荀攸の著作集を編集していたが、完成しないうちに逝去した。その為に荀攸の全計略が後世に伝わらなかった。これに対して裴松之の注釈では、「荀攸の死後十六年もしてから鍾ヨウは死去している。荀攸の奇策を編集するのに、何の困難があったろうか。しかも、八十歳にもなってまだ仕上がらなかった、と述べている。かくて、荀攸が征伐に随行して立てた機略が世間に伝わらなくなってしまったのだ。なんと残念なことよ」としている。小説『三国志演義』では、214年に曹操が魏王に昇ろうとするのを反対し、それが曹操の怒りを買い、荀攸はまもなく苦悶の内に病死した事になっているが、正史では曹操が王になることに反対した事実はない。叔父荀イクとは違い、曹操との関係は終始良好であった。

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