莅戸善政

莅戸善政

江戸時代中期から後期の武士。米沢藩上杉家の家臣で藩主・上杉鷹山に抜擢され、竹俣当綱(たけのまたまさつな)とともに藩政改革を主導したことで知られる。通称は九郎兵衛、号は太華、好古堂。幼い頃に父を亡くし、17歳の時に祖父から家督を相続した。藩主・鷹山が着手した藩政改革は、主導的立場にあった竹俣当綱の失脚などで一時中断し莅戸と隠居したが、改革が再始動した際に中心人物となった。莅戸は「上書箱(じょうしょばこ)」を設置し身分を問わず改革への意見を求めたのをはじめ、長期的展望に立った財政再建計画の推進、殖産政策、農村復興などを行い改革を成功に導いた。鷹山の命により執筆した飢饉救済の手引書『かてもの』は有名。墓所は山形県米沢市にある松岬神社(長泉寺から改葬)。

反応