菅原泰夫
菅原 泰夫(すがわら やすお、1946年4月1日 – )は宮城県出身の元騎手・元調教師。
アングロアラブなどを生産している牧場の五男として生まれ、中学2年次の1960年に単身引越して東京・茂木為二郎厩舎へ入門。1961年に馬事公苑騎手養成所に長期講習生として入所し、3年後の1964年に騎手としてデビュー。同期には嶋田功、松田博資がいる。1965年にダイヤモンドSをミハルカスで制して重賞初制覇を果たすが、華々しい活躍の目立つ嶋田とは対照的になかなか目立った成績を残せなかった。菅原は「調教で馬を仕上げることができて、はじめて一人前の騎手」という茂木の教えを信じ、黙々と努力を続けた。所属厩舎以外の馬にも丁寧に調教をつけ、どんな癖馬でも乗りこなせるよう腕を磨いた。1972年に通算100勝達成。1975年にカブラヤオーで皐月賞・日本ダービー、テスコガビーで桜花賞・オークスを制覇。菅原はテスコガビーの牝馬離れしたスピードやパワーを余すところなく引き出し、桜花賞は大差、オークスは8馬身差といずれも圧倒的な逃げ切り勝ちであった。一方のカブラヤオーは極端に他馬を怖がる性格であったが、調教で手の内に入れて超一流の逃げ馬として大成させた。ライバルに付け入る隙を与えないよう、その性格については誰にも言わずにずっと隠し通した。この2頭で制した春のクラシック4競走はすべて圧倒的1番人気で、ハイペースで逃げてそのまま押し切るものであった。1976年に恩師・茂木の死去により森末之助厩舎に転厩するが、年末に本郷一彦厩舎へ転厩。1977年には調教中の落馬により左股関節を脱臼骨折してしまうが、1980年に通算300勝を達成。1981年には14番人気のミナガワマンナで菊花賞を勝利し、史上3人目の三冠騎手となる。1982年にはホリスキーで史上3人目の菊花賞連覇を達成。どちらも人気薄で、「3コーナーの坂はゆっくり下る」という鉄則に逆らう早めのスパートでの勝利。特にホリスキーは3000mの世界レコード(当時)を打ち立てているが、菊花賞を連覇した騎手は菅原を最後に現在まで現れていない。1985年には通算500勝をマークしたほか、ダイシンフブキで朝日杯3歳Sに勝利。1990年には通算700勝を達成。1992年には東京新聞杯でナルシスノワールに騎乗して最後の重賞勝利を挙げ、同年に現役を引退。
引退後は1993年からは調教師に転身し、美浦トレーニングセンターに厩舎を開業。2010年に調教師として初の平地重賞制覇をマーク(第84回中山記念:トーセンクラウン)。2017年に定年のため調教師を引退。
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 宮城県 |
生年月日 | 1946年4月1日(73歳) |
騎手情報 | |
所属団体 | JRA |
所属厩舎 |
東京・茂木為二郎(1964 – 1976) 東京・森末之助(1976) 東京→美浦・本郷一彦(1976 – 1992) |
初免許年 | 1964年3月1日 |
免許区分 | 平地(初期のみ障害免許も所持) |
騎手引退日 | 1992年2月29日 |
重賞勝利 | 36勝 |
G1級勝利 | 7勝 |
通算勝利 | 6431戦769勝 |
調教師情報 | |
初免許年 | 1992年(1993年開業) |
経歴 | |
所属 | 美浦T.C. |
反応