董允休昭とういんきゅうしょう

董允休昭とういんきゅうしょう

董允、字を休昭といい、荊州南郡の人である。父は董和、孫は董宏がいる。劉備が皇太子を立てると、董允は選抜されて太子舍人となり、太子洗馬に転任した。劉禅が帝位につぐと、黄門侍郎に昇進した。丞相諸葛亮は北伐して、漢中に駐屯しようとしたとき、劉禅が年若くして、事の是非を判断できないことを心配し、董允が公明正大を貫く人物であるため、彼に宮中の諸事をまかせたいと望み、上疏して述べた「侍中の郭攸之・費禕、侍郎の董允らは、先帝が選出して陛下におのこしになった者たちであり、政治の規範・利害を斟酌し、進み出て忠言を尽くすのは、彼らの役目です。私が思いますには、宮中の事柄は大小の区別なく、すべて彼らに相談なさいませ。必ず、不備を補足し、広い利益をもたらしましょう。もしも恩徳を高める言葉がなければ、董允らを処刑してその職務怠慢を明らかになさってください」諸葛亮は次いで費禕を参軍にしたいと要請し、代わりに董允は侍中に昇進し虎賁中郎将を兼任し、警護の近衛隊を指揮した。忠言をたてまつる役目は、董允がすべてにわたって引き受けていた。董允の物事に対処する方法は天子に落度がないよう防止する体制をとり、天子の過ちを正し救うという侍臣のたてまえを尽くしていた。劉禅はいつも美人を選び後宮を充たしたいと望んでいたが、董允は、古代にあっては天子の后妃の数は十二人にすぎない、いま宮女はすでにそろっているゆえ、ふやすのは適当ではないと主張し、あくまでがんばって承知しなかった。劉禅はますます強く彼に気がねをするようになった。尚書令の蔣琬は益州の刺史を兼任したとき、上疏して費禕と董允に譲ろうとし、また上奏して「董允は何年にもわたってお側仕えをつとめ、王室を補佐してまいりました。どうか爵土を賜って、勲功と功労を褒賞してやってください」と述べたが、董允は固辞して受けなかった。劉禅は成長すると、宦官の黄皓を寵愛するようになった。黄皓は巧みなへつらいとうまくつけいる頭の良さによって、劉禅に受けいられるようと立ち回った。董允はいつも上は厳しい態度で主君を匡正し、下はたびたび黄皓をとがめた。黄皓は董允を恐れ、思いきって悪事を働こうとしなかった。243年、輔国将軍の官位を加えられた。244年、侍中守尚書令の官位のまま大将軍費禕の次官となった。246年、逝去した。享年不明。『華陽国志』によると、当時、蜀の人々は、諸葛亮・蔣琬・費禕および董允を四相と呼んだり、四英と称したりした。董允が死去して数年後、黄皓が権力をあやつって、ついに国家を転覆するに至ったとき、蜀の民で董允を追慕しないものはなかった。董允はかつて尚書令費禕、中典軍の胡済らといっしょに外に出て楽しもうと約束したことがあった。馬車の準備を終えたあとで、郎中の襄陽の董恢が董允へ敬意を表しにやってきた。董恢は年が若く官位が低かったので、董允が外出をやめようとしているのを見て、しりごみして退出しようと申し出たが、董允は許さず、「もともと外出しようとしたのは、同好の士と歓談するためであった。いま、君はわざわざおこしになって蘊蓄を傾けてくださろうというのだ。この談話を捨ておいて、あの宴会に赴くなんて考えられないことだ」かくて、そえ馬を車からはずすように命じ、費禕らは馬車の準備をやめて行かなかった。彼の正しい態度を貫き、士人に謙虚なありさまはすべてこういうふうであった。現在、中国の瀘州市江陽区に墓所がある。墓碑は既に壊れ盛土のみが残る。

反応