許靖文休きょせいぶんきゅう

許靖文休きょせいぶんきゅう

許靖、字を文休といい、汝南郡平輿県の人である。従兄弟は人物評で有名な許劭、子は許欽がいる。若いころ従兄弟の許劭とともに名を知られ、いずれも人物評価によって評判をたてられたが、感情的にしっくりいかなかった。許劭は郡の功曹となったが、許靖を排斥してとりたてようとしなかったので、許靖は馬磨きして自活した。頴川郡の劉翊は汝南郡の太守となると、許靖を計吏に推挙し、さらに孝廉に推挙した。許靖は尚書郎に登用されて、官吏選抜を担当した。後漢の霊帝が崩御し、董卓が政権を握ると、漢陽の周ヒを吏部尚書に任じ、許靖と協議して天下の士人の人事を扱わせた。汚職官吏を追放し、人に知られていない人物を見出し、昇進の遅れている者を抜擢した。許靖は、巴郡太守に昇進させようとしたが、就任せず御史中丞に任命された。許靖の従兄に当たる陳国の相・許トウが孔チュウ(公緒)と共に反董卓連合の計画に協力していたので、許靖は処刑を恐れて、孔チュウのもとへ出奔した。孔チュウが死去すると、揚州刺史の陳温を頼った。陳温が死ぬと、呉郡都尉の許貢と会稽太守の王朗が許靖と昔なじみであったので、彼らのもとに身を寄せた。孫策が東に向い長江を渡ると、みな交州へ逃亡してその難を逃れた。許靖は、いっしょについてきた者たちを先に船に乗せ、親類やそうでない者がみな出発してから後に岸を離れた。当時それを見た者はみな感心した。到着したのち、太守の士燮が敬意をもって手厚く待遇してくれた。陳国の袁徽は尚書令の荀イクに手紙を送って、称えて述べた。鉅鹿郡の張翔は、王命をうけたまわって交部に使者としてやってきて、権力にまかせて許靖を招き、むりやり忠誠を誓わせようとしたが、許靖は拒否して許さなかった。後に、劉璋が使者を派遣して許靖を招請したので、許靖はやってきて蜀に入国した。劉璋は許靖を巴郡・広漢の太守に任じた。214年、劉備は蜀を支配すると、許靖を左将軍長史とした。221年、劉備が漢中王になると、許靖は太傅になった。帝号を称することになると、許靖に辞令を下して、司徒とした。222年、逝去した。享年不明。孫盛はかつて董卓に仕えて官位を得ていた過去も持ち出して許靖を批判しているが、裴松之は孫盛に反論し許靖を擁護している。許靖は七十歳を越えても、人物を愛し、後進を導き受け入れ、世俗を離れた議論にふけっていた。丞相の諸葛亮以下みな彼に対して敬意を表した。魏の重臣である華キン・王朗や陳紀の子・陳羣らと親交があったという。王朗は許靖に手紙を送り、劉禅、諸葛亮の魏への帰順を促そうとしたが、許靖は既に没していた。蒋済は「許靖は全体として国政を担う人材である。」と称賛している。小説『三国志演義』では、劉璋を見捨てて劉備に降伏したという知らせが劉璋の元に届く場面で名のみ登場。さらに劉備に皇帝へ即位することを進めたときに他の群臣と共に登場する。

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