諸葛喬伯松しょかつきょうはくしょう

諸葛喬伯松しょかつきょうはくしょう

諸葛喬、字を伯松という。父は諸葛瑾、兄は諸葛恪、子は諸葛攀がいる。もとの字は仲慎といった。最初、諸葛亮にまだ子供がなかったとき、諸葛喬を後継ぎに求めたところ、諸葛瑾は孫権に言上して、諸葛喬を西にやって諸葛亮の後継ぎにした。その際、字を改めた。諸葛喬は駙馬都尉を拝命し、諸葛亮について漢中にやってきた。228年、若くして亡くなった。享年25。兄の諸葛恪とともに当時評判が高かったが、論者の意見では、諸葛喬は才能では兄に及ばないが、性質は兄より秀ているといわれていた。諸葛亮が兄の諸葛瑾に与えた手紙に、「喬は本来成都に帰るべきでありますが、いま諸将の子弟はみな輸送の任にあたっておりますので、彼らと栄辱を相い等しくすべきだと思います。いま喬に五、六百の兵を指揮させ、諸将の子弟とともに谷中での輸送に当たらせます」と送ってる。

反応