谷利こくり

谷利こくり

谷利といい、字も出身地も不明である。215年8月、孫権は十万の兵を率いて合肥に進攻した。このとき、曹操は漢中征伐に向かい、合肥は張遼・李典・楽進が七千の兵を率いて守るだけだった。張遼は護軍の薛悌から示された曹操の指令に従って、楽進に城を守らせて李典とともに出陣し、合肥包囲をしようとする孫権の出鼻をくじいたあと、籠城した。孫権は十日余り合肥を囲んだが、撤退せざるおえなかった。兵士が逍遥津を渡り終えると、張遼が急襲した。凌統は三百の兵でこれを防いで、孫権は駿馬に乗って橋を渡って行くと、橋の南端は敵の追撃を恐れてすでに撤去されていた。このとき、谷利は孫権の馬のあとに付き従ったが、孫権に鞍を掴んで手綱を緩めるように言うと、いきなり馬に鞍をくれた。馬は驚いて飛び越え、孫権は南岸の味方の陣に戻ることができた。孫権はこうして危機を免れると、すぐに谷利に都亭侯に封じた。226年、孫権は魏の曹丕が死去したと聞いて、江夏に進攻して石陽を囲んだ。武昌において大船を建造し、自らも乗船した。折から風が強まり、転覆の恐れがあったため、谷利は舵取りに近くの樊口に向かえと命じた。しかし孫権は羅州に行けと言った。谷利は刀を抜いて舵取に「樊口を目指さなければ斬る」と迫った。舵取は急いで樊口に入港した。風はますます強くなり、そのまま進むことはできなくなった。石陽は落とせないまま兵を返した。孫権は谷利に「阿利よ、水をおそれてあんなに臆病にだったのか」といった。谷利はひざまづいていった「大王は万乗の主であらせられながら、不測の淵を軽んじ、激浪の中で戯れようとなさいました。船上のやぐらは高く設けられ、安定をかいております。もしも転覆するような事があれば、国家を何とされるおつもりですか。それゆえ、命をかけてお引き止めいたしました」孫権はこの言葉を聞いて、特に谷利を大切にし、以後、谷利の名を呼ばず、常に姓の谷と呼ぶようになった。谷利は元来、孫権の左右にあって使い走りをする小者に過ぎなかった。しかし謹直な性格な上、忠義亮烈で、決していい加減なことを言わなかったので、孫権は谷利を愛し且つ信じて、親近監に任じて側近で用いた。元々は奴隷であったとされているが、『江表伝』には奴隷としての記録はない。谷利という姓名は実際の名前であったか不明である。

反応