貂蝉ちょうせん

貂蝉ちょうせん

貂蝉といい、漢の司徒王允の養女で、三国志演義に登場する架空の人物である。董卓が中央政権を牛耳り、洛陽から長安に遷都するなど、暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允が、董卓誅殺を行う為に当時16歳とされる養女・貂蝉を使い、董卓の養子の呂布と仲違いさせる計画を立てた。王允は、まず呂布を貂蝉に惚れさせた。その後、わざと董卓にも謁見させ、貂蝉を渡してしまった。これを聞いた呂布は怒りをあらわにして、王允を詰問した。王允は、董卓が無理やり貂蝉を奪ったと説明し、呂布はまんまと策にはまってしまうのである。このようにして、董卓と呂布の間に亀裂が生じた。呂布と貂蝉が度々密会したことに董卓はいったん怒ったが、李儒の進言により貂蝉を呂布の元に送るようにいった。しかし、貂蝉は董卓にも「乱暴者の呂布の元には行きたくない」と泣きつき、董卓の下を動こうとしなかった。呂布は王允と結託し、董卓が朝廷参内したとき、董卓が入朝してすぐすべての門を閉ざし、呂布は董卓を殺した。董卓が殺されたことにより、残党軍は分裂して内乱が起こり、呂布は劣勢を強いられていた。これをみた貂蝉は、安堵して自殺した。享年16歳。『横山光輝三国志』や『吉川英治三国志』によると、董卓暗殺が成功して自ら命を絶つが、『民間諸説』では、董卓亡き後の貂蝉は呂布の妾となった。その後しかし、子ができなかった。下邳の攻防戦では、陳宮に掎角の勢を進言されこれに従い出陣しようとした呂布を正妻の厳氏ともに引き止めている。下邳陥落後の貂蝉については記述がない。また『民間諸説』、貂蝉はひどく不美人で、王允が華佗にそのことを打ち明けたところ、華佗は首を西施のものと取替え、それでも度胸がなく行動に移せないのを嘆いたところ、今度は肝を荊軻のものと取り替えたという話がある。 元代の雑劇『錦雲堂美女連環計』では姓を任、名を紅昌、小字を貂蝉と設定している。 その後の展開としては、貂蝉を巡り曹操と関羽が争うが曹操が降りて関羽に譲る、または関羽が心の動揺を鎮めるため貂蝉を斬ってしまう、など作品によって異同が見られる。実在の人物ではないが楊貴妃・西施・王昭君と並び、古代中国四大美人の一人に数えられる。

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