費観賓伯ひかんひんはく

費観賓伯ひかんひんはく

費観、字を賓伯といい、江夏郡鄳県の人である。劉璋の母は族姑にあたり、劉璋のほうでも娘を娶らせた。213年、李厳の軍に参加して、綿竹において劉備に抵抗したが、李厳とともに降伏した。劉備は益州を平定したのち、裨将軍に任命し、後に巴郡太守・江州都督に任じた。223年、費観は都亭侯に封じられ、振威将軍の称号をつけ加えられた。後に三十七歳で亡くなった。享年不明。費観は交際上手な人柄であった。都護の李厳は自尊心の強い性格で、人を寄せ付けない厳しさがあったが、費観は李厳より二十余歳年下であったが、李厳に対してうちとけた態度をとり、まるで同年輩のようであった。37歳という若さで亡くなったが、213年に太守・都督に抜擢されていることから、若いことから才幹があり、高く評価されていたとされるが、事跡が残ってなく、伝が作られていない。『三国志演義』では、劉璋の婿ではなく、劉璋の妻の弟(つまり義弟)として登場する。李厳を推挙した上で、史実どおり綿竹を守った。李厳が劉備軍に捕えられると、その李厳の説得を受けて綿竹を開城した。以後、登場しない。

反応