近藤泰一郎
近藤 泰一郎(こんどう たいいちろう、1893年(明治26年)1月1日 – 1975年(昭和50年)12月24日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。従四位、勲一等。
1893年1月1日、愛知県中島郡平和町(現在の稲沢市)の農家に生まれる。高等小学校時代の1905年11月頃、伊勢湾に凱旋入港した第三戦隊の千歳を見学に行った際、司令官である出羽重遠中将に声をかけられ、海軍に対する憧れを抱く。その後、愛知県立第三中学校在学中、学費の都合上高等学校に行けそうになかったため、当時流行っていた米国への出稼ぎを考えていたが、排日運動の機運が高まっていたため断念し、同じく海外に行ける可能性があり、また憧れもあった海軍兵学校受験を決意し、1911年(明治44年)9月11日、海兵42期生として入校する。1914年(大正3年)12月19日卒業、少尉候補生。
遠洋航海後、1915年(大正4年)8月27日に戦艦榛名乗組、同年12月13日、任海軍少尉。1916年(大正5年)12月1日には第一特務艦隊所属の巡洋艦春日乗組を命ぜられ第一次世界大戦に参加、オーストラリア方面で輸送船団護衛に従事する。1917年(大正6年)10月10日に春日乗組を免ぜられ帰国、同年12月1日に任海軍中尉、海軍水雷学校普通科学生、次いで海軍砲術学校普通科学生として初級士官教育を受けた後、1918年(大正7年)12月1日、駆逐艦欅航海長に任ぜられる。欅時代の同僚に山縣正郷(当時欅水雷長、後に海軍大将)がいた。1919年(大正8年)9月25日、巡洋艦常磐乗組、となり、大正9年度練習艦隊に参加、練習艦隊の寄港先のフランスで同郷の大角岑生駐仏海軍武官(当時大佐、後に大将)と会い、歓待を受ける。帰国と共に同年6月3日に巡洋艦出雲航海長心得、12月1日には任海軍大尉、海軍大学校乙種学生(航海術専攻)として入校する。
卒業後、1921年(大正10年)6月3日に特務艦松江航海長として南洋統治領の測量に従事する。帰国後の1922年(大正11年)11月1日、第二艦隊航海参謀(司令長官中野直枝中将)。勤務中、関東大震災に遭遇する。その後、海軍大学校甲種学生の受験規定が大尉進級後海上勤務2ヵ年が1ヵ年に短縮された事により受験資格を得て受験、1923年(大正12年)12月1日、海軍大学校甲種学生(23期)入校。この時の同期に奥田喜久司、角田覚治、鈴木義尾、高木武雄、保科善四郎などがいる。1925年(大正14年)11月に卒業後、同年12月1日、軽巡洋艦名取航海長。しかし、在勤6ヶ月の後、突如として1926年(大正15年)5月1日に高松宮宣仁親王の皇族附武官となり、高松宮殿下が勤務する重巡洋艦古鷹乗組となる。同年12月1日、任海軍少佐。
少尉候補生時代
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生誕 |
1893年1月1日 日本 愛知県稲沢市 |
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死没 | 1975年12月24日(82歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1914年 – 1946年 |
最終階級 | 海軍中将 |
除隊後 | 翻訳家 |
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