近衛信尹

近衛信尹

安土桃山時代から江戸時代前期の公家。初名は信基、のち信輔。号は三藐院(さんみゃくいん)。関白・近衛前久(さきひさ)の子として生まれ、内大臣、左大臣と進み関白を望んだが、豊臣秀吉、秀次に関白職を奪われ心を病むようになり左大臣を辞した。秀吉による「文禄の役」の際には自ら朝鮮へ出兵しようと肥前国名護屋城へ赴いたが、時の天皇・後陽成天皇の怒りを買い薩摩へ3年間配流となった。この時の事情を日記『三藐院記』に残している。のち許され、左大臣に復職すると、1605年(慶長10)には念願かなって関白となった。墓所は京都市東山にある東福寺。和歌、連歌、絵画、音曲など諸芸に優れた才能を発揮した信尹だが、特に能書家として知られ、「近衛流(三藐院流とも)」と呼ばれる一派を確立、本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と謳われた。同時代に生き、諸芸に秀でた才女として名をはせた小野お通に書を教えたといわれる。また、関が原の戦いで東軍に寝返った小早川秀秋とは親交が深く、秀秋が早世するとその死を悼んだという。

反応