近衛前久

近衛前久

戦国時代から江戸時代にかけて関白左大臣、太政大臣を務めた公家で、近衛家当主。
初名は、晴嗣。前嗣、前久と名を変えた。一字名は、竜・山・杉・春。道号は、竜山。おもな官位は、太政大臣、従一位、准三宮。
近衛前久は、5歳にして従三位に叙せられ公卿に列せられると、若くして内大臣、右大臣となり、18歳のときに関白左大臣にまで上りつめ藤氏長者となった。
当時の京は荒廃と混乱のなかにあり、これを見かねた前久は公家らしからぬ行動力を発揮、越後の上杉謙信ら地方の勤王派戦国大名の助力を得るため各地を流浪した。特に織田信長とは親交が深く、最終的に信長の奏上により帰洛した。その後、信長の要請により九州へ下向、大友氏、伊東氏、相良氏、島津氏の調停を図ると、次に信長と本願寺との調停も行った。信長からの信頼もあつかった前久だが、1582年の本能寺の変で信長が横死すると前久の状況も一変する。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)から本能寺の変で明智光秀に通じていたとの嫌疑をかけられ、徳川家康を頼り遠江国浜松に逃れることを余儀なくされたのだ。その後、前久にかけられた嫌疑は晴れ京に戻ることができた。
激動の時代に波乱の生涯を送った前久は、晩年を慈照寺で過ごし1612年6月7日、この世を去った。

反応