近衛文麿
日華事変で近衛は『不拡大方針』を宣言した。しかしその一方で、拡大作戦が可能な臨時軍事費を閣議で決定して帝国議会でこれを可決させている。このことを彼自身、どう考えていたのか。政府は予算を通じて統帥部を制御できるし、そうする権限と義務があるとは考えなかったのであろうか。
チャーチルは『戦争責任は戦費を支出した者にある』という意味のことを言ったそうだが、卓見であろう。もちろんこのことは、この権限を持つ政府と議会の責任ということである(中略)。
近衞 文麿(このえ ふみまろ、1891年(明治24年)10月12日 – 1945年(昭和20年)12月16日)は、日本の政治家。栄典は従二位勲一等公爵。後陽成天皇の男系十二世子孫である。
近衛が本当に不拡大方針を貫くなら、拡大作戦が出来ないように臨時軍事費を予算案から削れば、それで目的が達せられる。彼にはそれだけのことを行う勇気がなかった。というより軍に同調してナチスばりの政権を樹立したい意向があった。園遊会で彼はヒトラーの仮装をしているが、翼賛会をつくりナチス授権法のような形で権力を握って『革新政治』を行いたいのが彼の本心であったろう。」[27]
貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣(第57代)、拓務大臣(第13代)、班列、農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43代)、国務大臣、麝香間祗候、大政翼賛会総裁(初代)などを歴任した。
大礼服に勲一等瑞宝章を着用した近衞
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生年月日 | 1891年10月12日 |
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出生地 |
日本 東京府東京市麹町区 (現:東京都千代田区) |
没年月日 | 1945年12月16日(54歳没) |
死没地 | 日本 東京都杉並区 |
出身校 | 京都帝国大学法科大学卒業 |
所属政党 | 研究会 → 火曜会 |
称号 |
従二位 勲一等旭日大綬章 公爵 法学士(京都帝国大学) |
配偶者 | 近衛千代子 |
子女 |
近衛文隆(長男) 野口昭子(長女) 細川温子(次女) 近衛通隆(次男) |
親族 |
前田慶寧(祖父) 井伊直安(義祖父) 近衞篤麿(父) 毛利高範(岳父) 徳川家達(義叔父) 近衞秀麿(異母弟) 大山柏(妹婿) 徳川家正(従弟) 細川護煕(孫) 近衞忠煇(孫) 島津修久(孫) 東隆明(庶孫) |
サイン | |
第38-39代 内閣総理大臣
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内閣 |
第2次近衛内閣 第3次近衛内閣 |
在任期間 | 1940年7月22日 – 1941年10月18日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第34代 内閣総理大臣
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内閣 | 第1次近衛内閣 |
在任期間 | 1937年6月4日 – 1939年1月5日 |
天皇 | 昭和天皇 |
国務大臣
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内閣 | 東久邇宮内閣 |
在任期間 | 1945年8月17日 – 1945年10月9日 |
第43代 司法大臣(兼任)
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内閣 | 第3次近衛内閣 |
在任期間 | 1941年7月18日 – 1941年7月25日 |
農林大臣臨時代理
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内閣 | 第2次近衛内閣 |
在任期間 | 1940年7月22日 – 1940年7月24日 |
その他の職歴
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第18代 枢密院議長 (1939年1月5日 – 1940年6月24日) |
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第13代 拓務大臣 第57代 外務大臣(兼任) (1938年9月30日 – 1938年10月29日) |
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第9代 貴族院議長 (1933年6月9日 – 1937年6月7日) |
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貴族院議員 (1916年10月11日 – 1945年12月16日) |
反応