郭図公則かくとこうそく

郭図公則かくとこうそく

郭図、字を公則といい、 潁川郡の人である。潁川太守隠脩は賢人の顕彰と英俊の抜擢を自分の務めとしていた。隠脩の部下たち、功曹の鍾繇・主簿の荀彧・孝廉の荀攸、それに刑吏の郭図らは皆、その任用による者たちだった。その後、荀諶・辛評とともに袁紹に仕えた。200年、許を襲おうとした袁紹を沮授と田豊が諌止すると、郭図は審配とともに進攻を主張、さらに監軍沮授を譏って、彼に大きな権限を与えてはならないと言った。結果、監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命されることとなった。郭図は、淳于瓊・顔良と共に白馬に駐留する劉延を攻撃した。しかし曹操軍の迎撃に遭い顔良、さらには文醜の両将を喪失するなど苦戦した。9月、曹操は袁紹の軍糧を集積した鳥巣を攻撃した。将軍張郃はただちに救援すべしと進言したが、郭図は曹操の本営を衝けば彼らは慌てて引き返すと言った。袁紹は鳥巣に軽騎兵、曹操の本営に思騎兵を送ったが、本営は陥せず、軍糧は焼き払われ、袁紹軍は大崩れになった。郭図はこれを恥じて「張郃は敗北を喜んで不遜な言葉を吐いております」と讒言した。その後、張郃は身の危険を感じて曹操に降った。202年、袁紹が死去し、後継者を誰にするか決めていなかったために、長子袁譚と末子袁尚の間で争いが起きた。203年、袁譚と袁尚の二人は戦いを始めた。郭図は袁譚側に付いた。袁譚は鄴を囲んで敗れ、平原に逃げ、これを追って袁尚が包囲陣を布いた。ここで郭図は思い切った作戦に出て、曹操に救援を求めようと袁譚に進言した。郭図の目論見は、「曹操はまず鄴を包囲するだろう、それを見た袁尚は必ず兵を返すに違いない。そこで袁譚は西に進んで鄴以北を手に入れ、袁尚が敗れれば、その兵も収容出来る。それを用いて曹操に抵抗すれば、糧道が伸び切った曹操軍は撤退せざる得ない」というものだった。袁尚は鄴を包囲されると、故安にいる兄の袁煕を頼って逃亡した。一方、袁譚は曹操に追われて南皮まで逃げたが、205年正月、郭図ともに斬り殺されてしまった。郭図が袁紹にいつごろ使えたかは、はっきりしない。また、袁紹伝では彼が献帝奉載を主張したと記すが、『献帝伝』では沮授の発案とあって、これまたはっきりしない。袁尚の謀臣沮授・田豊・審配・逢紀はみな非業の死を遂げており、各ともその一人である。この4人の才能と人柄については触れられているが、郭図については何も記されていない。ただ、人を譏る癖があった。荊州の劉表が、袁氏内紛に際し王粲に和解の手紙を書かせたが、そこには「変事は辛評・郭図より起こされ、災禍は同胞にもたらされたと聞いております」と記されている。また、審配も袁譚に手紙を書き、そこにも「どうして凶悪な臣下郭図などに蛇足を描かせ、ねじ曲がった言葉で媚びへつらわせ、ご親好を混乱させるのですか」と記している。『三国志演義』では無能な参謀として描かれており、袁氏を衰亡させた戦犯のように扱われている。官渡の戦いの前哨戦で、関羽に文醜を討ち取られた際には、劉備を処刑するよう審配と共に袁紹に進言するが、劉備に巧言で逃れられている。また、劉備が劉表の下へ向かうと申し出ると、それを阻むよう袁紹に諫止したが、容れられていない。しかし結局、劉備は戻って来なかったため、袁紹がこれを討伐しようとすると、それよりも孫策と同盟して曹操を討つよう進言し、受け入れられている。その後の官渡戦や袁氏内紛については、史実とほぼ同様の展開である。ただ、南皮の戦いでは楽進に弓で射られ、城の堀に転落して死んだことになっている。

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