郭汜かくし

郭汜かくし

郭汜といい、字も出身地も不明である。幼名は阿多。董卓が洛陽を焦土し東方へ軍を進めると、郭汜は諸軍をまとめ李傕とともに中牟で朱儁を打ち破った。192年、董卓が王允らに暗殺されると、賈詡の献策も用いて長安を攻撃し、これを陥落させた。このとき、郭汜は呂布に一騎討ちを挑まれたが、敵わず敗れた。その後、郭汜は献帝に迫って後将軍となり、朝政をほしいままにした。194年、馬騰が韓遂らと長安を攻撃してきた。郭汜は樊稠とともに迎え撃って、馬騰軍一万あまりを斬った。さらに、馬騰に協力していた羌族も撃破した。李傕と郭汜は互いに猜疑心を抱くようになり、李傕は献帝を人質として陣営内に捕らえ置き、宮殿や役所の財物を全て奪い取った。195年春、郭汜と李傕は、長安市内で数ヶ月にわたって攻撃しあい、死者は万単位を数えた。195年7月、張斉のなかだちで郭汜と李傕は和睦した。その隙に献帝は董承と、李傕に背いた楊奉に奉じられて長安を脱出、洛陽に向かった。郭汜と李傕はこれを悔いて追撃し、楊奉が招き寄せた白波賊の韓暹・胡才・李楽らとの間で大戦となった。しかし郭汜らは大敗し、献帝を奪い返せなかった。198年、曹操は謁射僕射の裴茂らを長安に派遣して、郭汜らは敗北した。部下の伍習に裏切られて郿で殺された。その首は曹操の元へ送られた。郭汜は剛勇の士であり、董承の述懐によると、李傕との抗争では「兵数百で以って、李傕軍数万を破った」という。『三国志演義』では献帝が自力で脱出したため、李傕・郭汜は献帝を追いかけて曹操軍に惨敗したということにされている。

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