酒井忠徳

酒井忠徳

江戸時代中期から後期の大名、出羽国庄内藩の7代藩主。官位は従四位下、左衛門尉、侍従、贈従三位。庄内藩6代藩主・酒井忠温(ただあつ)の子として生まれ、父の死後、跡を継いで7代藩主となった。当時の庄内藩は深刻な財政難にあり、江戸から本国に帰国する費用にも事欠き忠徳が涙した、という逸話も残るほどであった。そこで忠徳は藩財政再建のため、異例の登用といえる豪商・本間光丘の抜擢を行い、財政再建を託した。本間は商人ならではのアイデアで超緊縮財政を実施し、低金利への切り替えで借金を返済、さらに倹約の徹底を行い藩財政を好転させた。天明の大飢饉においても藩内からひとりの餓死者も出さない、など庄内藩は見事に再生を果たした。その後、再び藩財政は悪化し始めたが、忠徳は再度の藩政改革に着手、農村復興、藩校「到道館」の設立による人材育成などを行った。墓所は山形県鶴岡市にある大督寺。

反応