金子兜太

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金子 兜太(かねこ とうた、1919年(大正8年)9月23日 – 2018年(平成30年)2月20日)は、埼玉県出身の俳人。現代俳句協会名誉会長、日本芸術院会員、文化功労者。小林一茶、種田山頭火の研究家としても知られる。加藤楸邨に師事、「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論と実作の両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動した。上武大学文学部教授、現代俳句協会会長などを歴任。

1919年9月23日、埼玉県比企郡小川町の母の実家で、父の金子元春と母のはるの長男として生まれる。父の元春は開業医で、「伊昔紅(いせきこう)」の俳号を持つ俳人である。水原秋桜子の「馬酔木」に所属し、1930年に自身の俳誌「若鮎」を創刊し、秩父音頭の復興者としても知られている。伊昔紅の代表句は「元日や餅で押し出す去年糞」で、桂三木助が「蛇含草」を演する時にこれを引用し、その流れから『ビートたけしのオールナイトニッポン』初回にビートたけしが「元旦や餅で押し出す二年糞」と同句を捻ったものを第一声としたために有名になった。2歳から4歳までその父の勤務地であった上海で、帰国して以降は秩父の地で育つ。

旧制熊谷中学を卒業し、1937年旧制水戸高等学校入学。高校在学中の1937年に、一級上の出澤三太に誘われて同校教授宅の句会に参加してはじめて句作し、「白梅や老子無心の旅に出る」と詠んだ。以来、本格的に句作をはじめ、翌年に全国学生俳誌「成層圏」に参加し、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男らの知遇を得る。1939年に、嶋田青峰の「土上」に投句する。1940年に卒業し、1941年に東京帝国大学経済学部に入学すると、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事する。

1943年に大学を繰り上げ卒業し、佐々木直の面接をうけて日本銀行へ入行した。海軍経理学校に短期現役士官として入校して、大日本帝国海軍主計中尉に任官、トラック島で200人の部下を率いる。餓死者が相次ぐなか、2度にわたり奇跡的に命拾いする。1946年に捕虜として春島でアメリカ航空基地建設に従事し、11月に最終復員船で帰国する。1947年2月に日本銀行へ復職し、4月に塩谷皆子と結婚する。1949年から翌年末にかけて、日本銀行労働組合の専従初代事務局長を務め、その間に浦和から竹沢村に住居を移す。1950年末に福島支店、1953年に神戸支店、1958年に長崎支店へ転勤ののち、1960年に東京本店に戻る[10]。支店まわりから「窓際族ではなく、窓奥。1日2-3回開けるだけの本店の金庫番。だから書けた」という仕事で、1974年の55歳定年まで勤めた。

2017年4月
誕生 (1919-09-23) 1919年9月23日
日本 埼玉県比企郡小川町
死没 (2018-02-20) 2018年2月20日(98歳没)
職業 俳人
言語 日本語
国籍 日本
教育 経済学士
最終学歴 東京帝国大学経済学部卒業
文学活動 社会性俳句運動、前衛俳句運動
主な受賞歴 現代俳句協会賞(1956年)
詩歌文学館賞(1996年)
現代俳句大賞(2001年)
蛇笏賞(2002年)
日本芸術院賞(2003年)
正岡子規国際俳句賞大賞(2008年)
毎日芸術賞特別賞(2010年)
小野市詩歌文学賞(2010年)
菊池寛賞(2010年)
朝日賞(2016年)
配偶者 金子皆子(1947年-2006年)
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