鎌田銓一

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東京府出身。神戸で判事・鎌田孝二の長男として生まれる。早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第3大隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を優等で卒業。1921年(大正10年)4月、帝国大学理工学部陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部土木工学科に入学し、1924年(大正13年)3月に卒業した

1924年4月、工兵第3大隊付となり、陸軍築城部本部付を務め、1926年(大正15年)3月、工兵大尉に昇進。1920年(昭和5年)3月、陸軍省兵器局課員に就任し、1931年(昭和6年)8月、工兵少佐に進級。1932年(昭和7年)1月、工兵第1連隊付としてアメリカ駐在に発令され、1934年(昭和9年)3月までイリノイ大学、マサチューセッツ工科大学で学んだ。1934年1月、築城本部付に発令され、築城本部員兼軍務局課員を務め、1936年(昭和11年)8月、工兵中佐に進み兵務局防備課員となる。1938年(昭和13年)3月、兵務局防備課長に就任し、1938年(昭和13年)7月、工兵大佐に昇進。1939年(昭和14年)1月、整備局交通課長に転じた

1940年(昭和15年)9月、鉄道第5連隊長に発令され日中戦争に出征。1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級。同月、第4特設鉄道司令官に発令され太平洋戦争に出征。マレー作戦、シンガポールの戦いに参戦。1943年(昭和18年)2月、鉄道練習部長に転じ、同年12月、関東軍野戦鉄道司令官に発令され満州に赴任。1944年(昭和19年)12月、大陸鉄道参謀長に転じ、1945年(昭和20年)1月、第2野戦鉄道司令官に就任し、同年3月、陸軍中将に進んだ。同年8月、陸軍兵器本廠付となり、同年9月、第1総軍参謀副長に転じ、同年12月、予備役に編入された

その後、東部復員連絡局渉外部長(1945年12月-1946年12月)、第一復員省連絡部長(1946年5月-1946年12月)を務めた

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