長宗我部信親

長宗我部信親

四国の覇者・長宗我部元親の息子(嫡男)。幼名は千雄丸。仮名は弥三郎。
幼少の頃から聡明で武勇にも優れていたため父・元親から寵愛されその将来を嘱望された。さらに長身の美形だったともいう。
烏帽子親は織田信長で、信親の「信」の字は信長から与えられたものである。その後、信親は父に従い各地を転戦、土佐一国を率いる跡継ぎとして期待されるに十分な若者に成長していった。1586年には、豊臣秀吉の九州征伐に父・元親とともに従軍、先陣に組み入れられた。だが、豊後戸次川の戦いにおいて、島津軍の主力を相手に奮戦したが、多勢に無勢、信親はその若い命を戦場で散らした。敵方も賞賛するほどの見事な戦いぶりだったという。
家臣からの人望もあつかった長宗我部信親のあまりにも早すぎる死は父・元親に大きな衝撃を与え、長宗我部氏衰退のきっかけになる出来事のひとつとなった。

反応