関興安国かんこうあんこく

関興安国かんこうあんこく

関興、字を安国という。父に関羽、兄に関平、子は関統、関彝らがいる。219年、関羽が死ぬと、跡を継いだ。220年頃、馬良の後任として20歳にして侍中・中監軍に任じられた。例をみない大抜擢であったが、数年後に没した。享年不明。正史には関羽伝などに僅かながら登場するのみである。諸葛亮からも将来を嘱望された人物であったとされている。武芸達者なイメージがあるが、馬良の後任であるように、政治にも精通していた人物だったと推測される。小説『三国志演義』では弟に関索がいる他、関平は関羽の養子で、関興の義兄となっている。父とともに樊城攻めに出陣していたが、戦果を報告するために戦列を離れていたので難を逃れる。劉備が関羽の弔い合戦として呉征伐の軍を挙げる際、その先鋒を張飛の子張苞と武芸比べで争う。勝負は互角であったため、劉備の采配で一年年長の張苞を兄、関興を弟として義兄弟の契りを結ぶ事になる。関羽の弔い合戦では全身に白い鎧をまとって出陣。そこで亡き父の霊に助けられ、父の仇の一人である潘璋を斬り青龍偃月刀を取り返している。呉征伐の終盤、夷陵の戦いにおいては劉備を庇い重傷を負うことになる。しかし以後も蜀の将軍として度重なる北伐に参加し、張苞と同じく武器は父の形見である青龍偃月刀を用い、何度か関羽の霊に助けられつつ活躍する。第4次北伐には病のため参加できず、程なく病没することになっており、諸葛亮はこの訃報を漢中で受け、悲しみのあまり倒れてしまうという描写である。

反応