阿部忠秋

阿部忠秋

江戸時代前期の大名。下野国壬生藩・武蔵国忍藩の藩主、3代将軍・家光と4代将軍・家綱の2代にわたり老中として仕えた。従兄に同じく老中の阿部重次がいる。旗本・阿部忠吉の子として江戸に生まれ、幼少時から家光に仕え、最終的に老中にまで出世した。“知恵伊豆”の異名で知られる松平信綱らと「六人衆」に任命され、家光の側近中の側近として幕政に参画、幕政の安定化に多大な貢献を果たした。1651年(慶安4)に起きた幕府転覆テロ計画「慶安の変(由井正雪の乱)」では、事件後の処理で浪人の江戸追放策に反対し、就業促進策を提案、これにより社会の混乱を鎮静させた。明治の歴史家・竹越与三郎は「政治家の風あるは、独り忠秋のみ」とその手腕を高く評価した。忠秋は質実剛健・温厚朴訥な人柄で、頭脳明晰な辣腕政治家・松平信綱と対照的な存在であり、忠秋と信綱はお互いに欠点を指摘し合い幕政の中心を担った。また、忠秋は捨て子を何人も拾って育て優秀な奉公人に育てたという。

反応