陳化元耀ちんかげんよう

陳化元耀ちんかげんよう

陳化は字を元耀といい、汝南郡の人である。子は陳熾がいる。223年頃、陳化は、郎中令として魏に使いした。曹丕は酒が回った勢いで「呉と魏が対立しているが、どちらが海内を統一するか」と陳化に問うた。陳化は「易の説卦伝には『帝は震に出づ』とあり、天命を知る先哲は、天子の儀杖は呉の星座の分野にかかり、運気は東南に在りと申しております」と答えた。曹丕はまた「昔、周の文王は西伯から立って天下を統一した。どうして東と言うのだ」と訊いた。すると陳化は「周が国の基を築いたのは、その一族である太伯が東にいたからこそ、文王は西方より興ることが出来たのでございます」と言い返した。曹丕は笑って反論せず、心中、その言葉を優れていると評価した。帰国の際には、鄭重な礼をもって送り還した。この間、魏と呉はしばし交戦しており、盧弼は「使者が往来するのは異事である」と疑問を呈した。孫権は使者を奉じて陳化が国の名誉を輝かせたということで、陳化を犍為太守に任命した。しかし犍為郡は蜀に在り、これはいわゆる「遙領」という、名目だけの官職であった。225年、太常の顧雍が孫邵に代わって丞相となったので、陳化は尚書令と太常を兼任した。陳化は色を正して朝廷に臨み、自分の子弟たちには営利事業を廃めさせ、官の俸禄だけで生活するように命じた。早く妻を失くしたが古例に従って感銘を受け、彼がまだ壮年だったので、宗正に命じて宗室の女を妻に与えようとした。しかし陳化は病気を理由に辞退したので、孫権も無理強いはしなかった。七十歳を過ぎた時、上疏して退官を請い、会稽郡の章安で死去した。陳化は群書を博覧し、気性は剛毅で、しかも身長七尺九寸、生来、辺りを払う威風を持っていた。趙咨・張温・沈コウ・馮煕・鄭泉、陳化らは魏に使いし、蜀に赴き、孫権の旨を受けて存分にその才能を発揮した。曹丕はただ彼らに翻弄されるままだった。陳化は『三国志演義』には登場しない。晩年の行事に関して、『呉書』は何も記していない。

反応