陳式ちんしき(ちんしょく)

陳式ちんしき(ちんしょく)

陳式といい、字も出身地も不明である。劉備が巴西に入ったとき、共につき従った。217年、陳式は劉備に随行して漢中の馬鳴閣道に赴いて防いでいたが、徐晃に敗れた。222年、劉備の東征につき従って、呉班とともに水軍を率いて、夷陵に駐屯した。229年、諸葛亮が北伐を起こし、陳式は大将として先鋒となり、武都・陰平を攻撃して功績をあげた。諸葛亮は建威を攻略していたので、陳式は諸葛亮とともに魏の郭淮を挟撃した。その後、郭淮は隴西に引き返した。陳式は陳寿の父といわれているが、陳寿伝においてもそのような記述はない。また、劉備や諸葛亮らに将軍として付き従い、一軍を率いているにもかかわらず、史料が乏しく伝がない謎が多い人物である。『三国志演義』では、漢中攻防戦において黄忠の武将として登場した。夏侯尚の軍勢と戦い捕虜となるが、黄忠も夏侯尚を捕らえたため、数日後に双方の人質交換で無事に黄忠の陣営に戻された。北伐では、魏延と共に軍令を無視して魏軍を追撃した。しかしその結果、大敗して多くの兵を失ったことから、諸葛亮の怒りを買って斬首された。このように『演義』での陳式は凡将扱いされている。『晋書』によると、陳寿の父が馬謖の参軍で、馬謖の死刑に連座して髠刑(剃髪の刑で、宮刑の次に屈辱的とされた)に処された。『演義』ではこうした話を元に、陳寿の父としての陳式が諸葛亮に処刑されるエピソードが創作された。

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