顔良がんりょう

顔良がんりょう

顔良といい、字も出身地も不明である。袁紹の配下となって、199年、麾下の将軍として文醜とともに並ぶようになった。200年1月、曹操自ら劉備を攻撃して大敗させ、さらに下邳の進攻して関羽を擒にした。敗れた劉備は袁紹に身を寄せた。2月、袁紹は、顔良・郭図・淳于瓊に白馬にいる東郡太守劉延を襲わせ、自分は黎陽から黄河を渡ろうとした。沮授が「顔良は偏狭なので単独で任用してはいけません」と諌めた。しかし袁紹はそれを聞かず、白馬津を守る曹操軍の劉延を、顔良に単独で攻撃させた。曹操は白馬を救おうとただちに進発した。そして謀臣荀攸の意見を用いて、4月、延津から渡河して袁紹の背後を衝く勢いを見せた。袁紹がこれに対応しようと兵を分けた隙に、曹操は昼夜兼行で白馬に向かった。十余里手前まで来ると、顔良は慌てふためいて迎撃した。曹操は張遼・関羽を先鋒としてこれを撃った。関羽は顔良の麾蓋を望見するや、馬に鞭をくれて突進し、大軍の中で顔良を刺して首を奪った。袁紹の将軍たちは誰も立ち向かえず、ついに白馬の囲みを解いて去った。顔良は文醜と並び称された袁紹麾下の優将だったが、字も本籍も不明であり『三国志』には伝は立てられていない。ただ、顔之推は自著『顔子家訓』の中で、「始祖は鄒や魯に住み、累世学問に携わってきた。一族の者で将軍になった者はいずれも失脚した」と記し、顔良もその一人であると述べている。となれば、彼は豫州の人だったことだけは明らかである。白馬の戦いでは、まことにあっけない最期であった。これより先、孔融は荀彧に対して袁紹を輔佐する諸臣の名を挙げ、曹操がこの強力な敵に対抗出来るだろうかと懸念を示した。そして「三軍をおおわんばかりの勇を誇る顔良・文醜が統率する軍に勝つのは難しい」と言うと、荀彧は袁紹の諸臣の短所を指摘し、「顔良・文醜は大将の器量がない一騎駆けの武者で、一戦して擒に出来る」と答えた。『三国志演義』では、関羽の武者ぶりが第二十五回で活き活きと描かれている。だが、いくら関羽が剛勇だとはいえ、ただ一騎で大軍の中に飛び込んで敵将の首を奪うのは、あんまりだと考えたのか、『演義』の弘治本には次のような注がある。劉備はあらかじめ顔良に関羽の風貌を伝えておき、「もしこの男を見かけたら、私の居場所を教え、すぐ来るように言ってもらいたい」と頼んでおいた。突進して来た関羽を見て、これがその人かと思って打ち掛からないでいる顔良を、関羽は青龍偃月刀を揮って斬り殺した。陳舜臣氏の『秘本三国志』では、劉備が顔良に「議弟は曹操の兵二万を引き連れて、こちらに寝返る旨、密使が伝えてきた」と囁いたことにしてある。全軍の戦闘に立って進んできた関羽を見て、顔良が単騎で駆け寄って馬を停めたところを、関羽の刀が一閃した。顔良が戦場で武勇を揮ったという事実は『三国志』には全く記されていない。それなのに彼の名は、関羽に殺されたことによって、人々に記憶された。まことに皮肉な役回りである。

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