顧雍元歎こようげんたん

顧雍元歎こようげんたん

顧雍、字を元歎といい、呉郡呉の人である。弟は顧徽、子は顧邵、顧裕、顧済がいる。蔡ヨウは、朔方郡からもどったあと、人の怨みを避けるために呉にやってきたことがあって、顧雍はその蔡ヨウから琴と学問との伝授を受けた。州と郡の役所が上表して彼を推挙し、二十そこそこで合肥県の長となり、のちに転じて政治を執ったが、それぞれに見るべき治績を上げた。孫権は、会稽太守の職務にあたることになると、みずからは会稽郡に赴かず、顧雍を郡の丞に任じて、太守の仕事を代行させた。顧雍は会稽郡にあって、武装して反抗する勢力を掃討して、郡内は平穏となり、役人も民衆も彼に心服した。数年して、孫権のもとにもどって左司馬となった。孫権が呉王となると、彼は昇進を重ねて大理奉常となり、尚書令の職務を担当し、陽遂郷侯に封じられた。侯に封ずるとの命を授かったあと、官舎に帰ったが、顧雍は何もいわないので家人たちはそのことを知らず、のちに人から聞かされてびっくりした。225年、母親を呉から都へ迎えた。母親が到着すると、孫権が出向いてことほぎの言葉を述べ、前庭において顧雍の母親に親しく拝謁をした。同年、太常に改任され、孫邵のあとをついで丞相・平尚書事となった。彼が武将や文官を任用するにあたっては、おのおのの能力がその任務に相応しいかどうかだけを判断の基準とし、自分の感情に左右されることがなかった。ときに民衆の間に入って意見を求め、時宜に適した施策を見つければ、みなひそかに孫権に上聞した。その建策が用いられれば、孫権自身の発案によるものだとし、用いられなかった場合には、絶対に人に知らせることがなかった。孫権は、このことで彼を重んじた。しかし一方、公の朝廷にあって意見を申し述べるときには、その言葉や顔つきはおだやかであったが、正しいと思うところを主張して譲らなかった。呂壱と秦博とが中書となって、諸官庁および州や郡の公文書の検査監督にあたった。呂壱たちは、その職務を利用してしだいに勝手な権限をふるうようになり、やがては専売品や山沢の産物を自由にし、悪事の摘発では些細なことでも上聞し、でっち上げのスキャンダルをとりあげ、重臣たちを傷つけ、冤罪をおとしいれた。顧雍も呂壱によって諫言されていた。のちに呂壱の悪事が発覚し、獄吏に繋がれた。顧雍は、獄に赴いて罪状の取調べを行い、個人的な感情に左右されず、定まった法律で罰した。長江沿いの守備にあたる部将たちは、それぞれに手柄を立てて自分の働きを示したいと考え、適宜の策だというものを多く言上して来て、奇襲策を献ずる者もままあった。孫権がこれについて顧雍に意見を求めたところ、軽々しく兵法では小さな利を追い求めることを戒め、国家のために考える献策を用いるべきだといった。孫権はこれに従った。243年、宰相を在任のまま死去した。享年66歳。顧雍は蔡ヨウのもとで学問を授かったが、心を集中して乱れることなく、頭のまわりが速く教えやすかった。顧雍の非凡さを高く評価して「あなたは、きっと大成されるにちがいない」といった。『呉書』にいうと、顧雍の字を元歎というのは、蔡ヨウの讃歎を受けたことから、こうした字をつけたのだといわれている。顧雍の人柄は、酒を飲まず、寡黙であったが、行うところは時宜を得たものであった。孫権はつねづね讃歎して、「顧君はものをいわぬが、いえば必ず的を射る」といった。また次ぎのようにもいって「顧公が同座すると、楽しむことができなくなる」彼はこんなふうに畏敬されたのである。『三国評』の徐衆は、「顧雍が呂壱の告げ口でひどい目にあったことを意に介せず、穏やかな顔つきで彼に対したというのは、まことに立派な人柄である」と称えた。しかしながら、暗愚の人物に対して甘すぎたことに対しても批判を述べている。小説『三国志演義』では、張紘の推挙で孫権に仕えている。赤壁の戦いでは開戦に反対する降伏派の群臣の一人として登場し、諸葛亮に論戦を挑み論破されている。

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