馬謖幼常ばしょくようじょう

馬謖幼常ばしょくようじょう

馬謖、字を幼常といい、襄陽郡宜城県の人である。襄陽の名家「馬氏の五常」の五男で、兄は馬良らがいる。荊州従事として劉備に従って蜀に入り、緜竹県・成都県の令、越スイ郡の太守に登用された。225年、諸葛亮が南中を征討したとき、馬謖は数十里の彼方まで送り行った。諸葛亮が、「何年にもわたってともに作戦をねったが、今、もう一度良策を授けてほしい」というと、馬謖は、「南中は要害と遠隔地をたのみとして長い間服従しませんでした。今日これを撃ち破ったとしても、明日になればまた反旗をひるがえすでありましょう。現在、公は国力を傾けて北伐に向かわれ、強力な逆賊にかかりきりになられるご予定。彼らが国内の軍事的空白を知れば、その反逆もまた早いでしょう。もしも残党をことごとく滅ぼして、後の憂いを除こうとすれば、仁者の気持ちからはずれるうえに、簡単に片をつけることは不可能です。そもそも用兵の道は、心を攻めることを上策とし、城を攻めることを下策とし、心を屈服させる戦いを上策とし、武器による戦いを下策とします。願わくば、公には彼らの心を屈服させられんことを」と答えた。諸葛亮はその策を入れ、指導者の孟獲を赦すことによって南方を屈服させた。そのため、諸葛亮がこの世を去るまで、南方は二度と反乱をおこそうとはしなかった。228年、諸葛亮は出陣して祁山に向かった。当時経験に富んだ将軍として魏延・呉壱らがおり、意見を具申した者たちはすべて彼らを先鋒にさせるのがよいといった。諸葛亮は人々の意見に反して馬謖を抜擢して先鋒とし、大軍をひきいて前方にやり、魏の将軍張コウと街亭で戦わせたが、張コウによって撃ち破られ、軍兵は散り散りになった。諸葛亮は進軍しても、拠点にする場所がなかったため、軍を撤退させて漢中に戻った。馬謖は投獄されて死に、諸葛亮は彼のために涙を流した。享年39歳。人並みはずれた才能をもち、好んで軍事戦略を論じ、丞相の諸葛亮によってたいそう高い評価を受けた。劉備は臨終に際して諸葛亮に向かって、「馬謖は、言葉が実質以上に先行するから、重要な仕事をさせてはいけない。君はそのことを察知しておれよ」といったが、諸葛亮はそれでも反対の判断をし、馬謖を参軍にとりたて、いつも招いて談論を交わし、昼から夜に及んだ。『襄陽記』によると、馬謖は最後に臨んで諸葛亮に手紙を送って、「明公は私をわが子のように扱われ、私は明公をわが父のように思ってまいりました。どうか舜が鯀を殺して禹を引き立て父の罪に関係なく有能な子を登用したたてまえを充分お考えください。平生の交わりを今となってそこなうことのないようにしてくだされば、私は死んでも冥土にあってなんの心残りもないでしょう」と述べた。時に十万の軍兵を彼のために涙を流して悼んだ。諸葛亮はみずから葬儀を臨席し、その遺児を平素と同じように待遇した。蒋エンが後に漢中にやってきたとき、諸葛亮に向かって、「昔、楚が晋に敗れた子玉得臣を殺したあと、はじめて晋の文公は、喜びの色を顔にあらわしました。天下がまだ平定されていないのに、智謀の士を殺したとは、なんと残念なことでしょう」といった。諸葛亮は涙を流して、「孫武が天下を制圧し、勝利を得ることができたのは、法の執行が明確であったからだ。だからこそ陽干が法を乱したとき、魏コウは彼のの従僕を処刑したのだ。四海の内は三国に分裂し、戦争がまさに始まらんとするとき、もし法律を無視したならば、どうして逆賊を討つことができようぞ」といった。習鑿歯はいう。諸葛亮が中国を併呑できなかったのも、当然ではなかろうか。そもそも晋の人は楚と戦って敗れた荀林父の将来における成功を期待したからこそ、法を無視して後の功業を勝ち得たのである。楚の成王は子玉得臣が自国にとって利益になることを見抜けなかったからこそ、彼を殺害して敗北の上塗りをしたのである。今、蜀の西方の片隅に存在し、有能な人物は中国より少ないのに、そのうちの傑物を殺害して、反対に凡俗の起用を行わい、秀れた人物に対して厳密な法の適用をし、三度の敗戦にもかかわらず曹沫を将軍として起用しつづけた魯の荘公のやり方を手本としない。それで大事を成し遂げようとしても、困難ではなかろうか。そのうえ、劉備が馬謖に重要な仕事をさせてはいけないといましめたのは、彼の無能さを説いたのではなかったろうか。諸葛亮が注意を受けながらもそのとおりにできなかったのは、明らかに馬謖をやめさせがたったからである。天下の宰相となって、大いに人の力を結集しようと願いながら、才能を考えて適当な任務を与え、能力に応じて仕事につかせることができなかったのである。人を見る目という点で大失敗を犯し、聡明な君主の戒めに背くことになり、人を裁くうえで的をはずし、有益な人物を殺害することになった。英智についてともに語りあえる人物はなかなかいないものだ。なお『晋書』陳寿伝には、陳寿の父は馬謖の参軍であり、この時馬謖に連座してコン刑(剃髪の刑で宮刑に次ぐ厳重な処罰)に処されたという逸話が載る。通説では馬謖の死は処刑によるものと見なされているが、以下の異説も存在する。「亮、西県の千余家を抜きて漢中に戻り、謖を戮して以て衆に謝す」(諸葛亮伝)「亮、進むに拠るところ無く、軍を退きて漢中に還る。謖、獄に下されて物故す。亮、これがために流梯す」(馬謖伝)「朗、もとより馬謖と善し。謖、逃亡し、朗、情を知れども挙げず。亮、これを怨み、免官せられて成都に戻る」(向朗伝)「諸葛亮伝」では泣いて馬謖を斬るの故事どおりに処刑されたとあるが、「馬謖伝」に記述する「獄に下されて物故す」は処刑ではなく獄中での死であると解釈する。

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