高柔文恵こうじゅうぶんけい

高柔文恵こうじゅうぶんけい

高柔、字を文恵といい、陳留郡圉県の人である。従兄は高幹、祖父は高弘、父は高靖、子は不明だが孫は高渾がいる。父の高靖が蜀軍都尉として赴任して不在の時、四戦の地の陳留郡を去って、河北にいた従兄の高幹から呼ばれていたのを幸いに、一族を挙げて身を寄せた。父が任地で亡くなると、高柔は戦乱の中、三年がかりで益州から遺体を迎え取って帰った。人々はその孝を称讃した。205年、曹操は河北を平定し、高柔を菅の県長に任じた。一度は曹操に降伏した高幹は、翌日并州に拠って叛乱を起こした。曹操は高幹と同族の高柔を、正しい法の適用を要求される刺奸令史とし、もし失敗したらそれを理由に殺そうとした。高柔は朝夕職務を怠らず、夜は文章を抱えて寝るほどだった。夜、その姿を覗き見た曹操は、哀れに思って自分の裘を脱いでそっと被せかけてやった。213年、曹操が魏公となり、魏国が建てられた時、高柔は丞相理曹掾として法の執行に当たることになった。ある時、鼓吹の宋金らが逃亡した。曹操は逃亡兵が増えることを懸念して、征討中の兵士が脱走すると、旧法より罰を重くしていた。その結果、宋金の母と妻、二人の弟たちは官の奴隷にされた。しかし、係官は彼ら全員を処刑するべしと強硬案を主張した。「士卒の逃亡は憎むべきことだが、中には逃亡したことを悔やむ者もいると聞きます。むしろ寛大に妻子を扱うべきかと存じます。これが敵に聞こえれば、投降は詐りではないかと疑念を抱き、一方、逃亡兵は妻子の安泰を知って帰心を起こします。厳罰で臨むと兵士は一人の逃亡者の罪が我が身にも振りかかると恐れ、連れ立って逃げ出すかもしれません。重刑は逃亡を止めさせる効果が無く、逆にこれを助長することになります」と高柔は述べた。曹操は「善し」と言い、妻子たちを赦した。高柔は昇進して頴川太守となり、また還って丞相理曹掾となった。曹丕が帝位に就くと、高柔を治書御史として関内侯の爵を与え、転じて治書執法の官を加えた。当時、誹謗・妖言が盛んに行われていた。曹丕はこれを嫌って、妖言する者を殺し、それを密告した者を賞した。高柔は「これでは妖言を悔いて善に立ち戻ろうとした者は道を塞がれ、悪賢い連中のために誣告の道を拓くとうなもの」と諫めた。曹丕はすぐには従わなかったが、誹謗の言を密告する者は、密告された者の罪をもって処罰する」ことにした。223年、高柔は昇進して廷尉となった。曹叡が即位すると延寿廷侯に封じられ、教育問題や曹叡の奢侈を諌める上書を何度も提出した。248年、高柔は司徒になった。249年、司馬懿が曹爽を誅した時、高柔は命じられて仮節・行大将軍事として、曹爽の陣営を占拠した。254年、曹髦が即位すると安国侯に昇進し、大尉に転じ、曹奐の代には加増されて四千戸の領邑を得た。263年、高柔は90歳で死去し、元侯と諡され、後は子の高渾が継いだ。陳寿の評によると、晩年の高柔について、官位の昇進を記すだけであり、魏の宿老として司馬氏一族の簒奪の野心を抑えようとしなかったのが昇進をもたらしたか、と評している。『三国志演義』では第百七回に司馬懿の曹爽誅殺のみの登場だけである。

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