高橋成忠

高橋成忠│無料動画│240px shigetada takahashi20100424

高橋 成忠(たかはし しげただ、1940年10月3日 – )は大阪府北河内郡枚方町(現・枚方市)出身の元騎手・元調教師。

JRA調教師の高橋義忠は実子。

父は枚方市議会議員も務めた人物で、その三男であった。少年時代は父と連れられて京都競馬場へよく足を運び、父が「なんとかホウシュウという馬が強かった」といったことに印象を残したという。中学時代には考古学者を将来に思い描いていたが、高校進学が決まった後、駅の構内に貼られていた騎手候補生募集のポスターを見て「なんとなく馬にひかれた」ほか、募集条件がことごとく自分に合致していたことから受験に至り、馬事公苑騎手養成長期課程に第7期生として入所。主な同期生には池江泰郎、丸目敏栄、野元昭、徳吉一己、福永甲、吉岡八郎がいる。1957年に阪神・佐藤勇厩舎の騎手見習いとなり、2年後の1959年に同厩舎所属でデビュー。3月7日にイサムドーターで初騎乗、28日にツキオーで初勝利を挙げた。1年目から14勝をマークし、年末にはミスイエリュウで朝日チャレンジカップを制して重賞初勝利。非凡なスタートを切ったが、見習騎手の減量特典がなくなって騎乗馬に恵まれない時期が続く。そんな中でも着実に勝利数を伸ばしていき、1963年には年間33勝で初めて全国10位に付けると、1964年にはヒカルポーラで天皇賞(春)・宝塚記念を制覇。特に天皇賞は圧倒的人気のメイズイがあわや逃げ切るかというところを大外から一気に差し切り、八大競走初勝利を挙げた。これがきっかけで騎乗馬が急増し、1965年には48勝で初めて関西リーディング(全国4位)を獲得。1966年には62勝で2年連続関西リーディング(全国3位)、1967年にはシーエースによる桜花賞制覇を含む84勝を挙げ、関西所属騎手として初の全国リーディングジョッキーとなった。その後も2年連続(1968年~1969年)で関西リーディングに輝き、1970年には関東馬のタマミで3年ぶり2度目の桜花賞制覇、リキエイカンで6年ぶり2度目の天皇賞(春)制覇を達成。桜花賞のタマミは当時開場間もない栗東トレセンに担当厩務員の蛯名幸作と共に滞在しており、高橋は田村正光に代わってトライアルから手綱を任されていたが、圧倒的人気に応えて見事に4馬身差で逃げ切って見せた。天皇賞のリキエイカンはロスなく内を突く冷静な騎乗が光り、ホウウン・フイニイとの大激戦をクビ差制した。同年は71勝を挙げながら6年連続関西リーディングを阻まれたが、86勝を挙げて圧倒的な1位となったのは3年目の若き天才・福永洋一であり、この頃を境に福永・武邦彦が関西の上位を占めていく。1971年以降は騎乗数・勝利数も次第に減っていき、活躍も自厩舎の所属馬が中心となる。1973年には愛知杯でシンザン産駒のシルバーランドに騎乗し、芝2000mの競走で中央競馬史上初の2分を切る1分59秒9のレコードタイムで勝利。1976年にはCBC賞をレコードで勝利しているが、これが最後の重賞制覇となった。同年には自厩舎の所属馬ではないが、鳴尾記念で7頭中7番人気のタイホウヒーローに騎乗し、菊花賞馬コクサイプリンスや有馬記念馬イシノアラシを抑えて見事に勝利。1977年に調教師免許を取得し騎手を引退。36歳というトップクラスの騎手としては若年での引退となったが、後年この理由を問われた高橋は「ずっと馬に乗ってきて、ここらで休憩しようかなって感じですよ」と語った。その一方で「この世界はやっぱりジョッキーが一番ですよ。だから、もっと乗っていたかったなあと悔いは残ります。今さら言ってもしょうがないですが」とも語っている

基本情報
国籍 日本
出身地 大阪府北河内郡枚方町
(現・枚方市)
生年月日 (1940-10-03) 1940年10月3日(78歳)
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会
所属厩舎 佐藤勇(1957年-1977年)
初免許年 1957年3月1日
免許区分 平地・障害
騎手引退日 1977年2月28日
重賞勝利 34勝
G1級勝利 6勝
通算勝利 5176戦749勝
調教師情報
初免許年 1978年
調教師引退日 2011年2月28日(定年)
重賞勝利 23勝(うち地方交流7勝)
G1級勝利 2勝
通算勝利 7948戦524勝[注 1]
経歴
所属 栗東T.C.(1978年 – 2011年)
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