高橋晴邦

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1960年代後半から、1970年代前半のオイルショックによるメーカーのモータースポーツ活動縮小に至るまで、約8年という活動期間ながら、トヨタのエースドライバーとしてニッサンの高橋国光・北野元・長谷見昌弘らと数々の名レースを繰り広げた。トヨタ・ワークス・チームの事実上の解散の後、20代の若さで第一線から退き、その後は1974年(昭和49年)と1975年(昭和50年)のル・マン24時間レースにのみ、日本製マシンのシグマで参戦した。引退直後にビジネス留学のため渡米。帰国後は、東京都内でトヨタの販促関係業務や、自動車関連用品業務を行なっている。1970年代末から1980年代前半にかけてはレーシングチームのオーナーとしても活動していた。

子供の頃から模型やメカニカルなものが好きな一方、剣道・柔道・水泳、長じてボウリングやビリヤードに熱中し、スポーツ万能であった。後に法政大学工学部に進学し、卒業論文のテーマで『人間工学的見地から見た自動車シートの安全性』を発表している。大学2年の1966年(昭和41年)4月、船橋サーキットでの第2回ゴールデンビーチトロフィーにフェアレディ1500で初参戦し、総合5位(クラス2位)になった。しかし父親の反対に遭い、以後一年間レースには出場しなかった。1年後、父親から条件付きでレース参戦が許される。その条件とは「大学は留年せずに卒業する」、「やる以上は日本一になる」、「30歳までに辞める」という3つであった。1967年(昭和42年)はホンダ・S800で数回参戦し、年内にTMSC(トヨタ・モータースポーツ・クラブ)に加入する。1968年(昭和43年)はTMSCの若手ドライバーとしてトヨタ・カローラを操り、全日本ドライバー選手権T-Ⅰ(ツーリングカー1,300 cc 以下)部門で9戦中7勝してチャンピオンとなる。ミニクーパーSを操る菅原義正とのチャンピオン争いが激化したシーズン後半戦には、トヨタ自販ワークス仕様車の貸与も受けるようになる。当時は、将来の目標としてF1ドライバーになることを夢見ており、ヨーロッパのレーシングスクール宛に入校希望の手紙を書いたこともあったが、トヨタのワークスドライバーを選択する。

反応